第71話 切り捨てた男
召し出しの日。組合本部の広間に、会頭が現れた。
仕立てのいい外套。胸を張った姿勢。だが、その顔には隠しきれぬ疲れがにじんでいた。長年、連合じゅうの商いを束ねてきた男が、いま一人で、組合の前に立っていた。
広間の長机には、産地を偽った品の山が並んでいた。延べ銀。絨毯。陶器。香木。その脇に、主任の差し出した控えの束。
会頭はそれらをちらと見た。
顔色がわずかに変わった。だが、すぐに表情を取り繕った。
俺は広間の隅に立っていた。理事の脇だ。徽章のない、ただの元検品係として。
理事が口を開いた。
「バルロ商会会頭。連合じゅうの取引先から集めた品を検めた。四十を超える品に、産地の偽りが見つかった。安い産地のものを、高い産地の品と偽って売った」
理事は控えの束を机に置いた。
「そして、これは商会の蔵にあった控えだ。書き換えの元と、書き換えた先。商会自身の手で記されている。──申し開きは、あるか」
会頭はしばらく黙っていた。
それから低い声で言った。
「……それは、まやかしだ」
会頭は顔を上げた。
「品の来た道が視えるなどと、ありもしない作り話で商会を陥れようとしている。その控えとやらも、誰かがでっち上げたもの。組合ともあろうものが、占い師の言葉を真に受けるのか」
かつて、ヴァローという鑑定士が使った手だった。
実力で覆せぬなら相手を「いかさま」と呼ぶ。証しを「でっち上げ」と言い張る。会頭は最後の最後で、同じ手にすがった。
だが、理事は動じなかった。
「来歴の目が、証しになるとは、組合は言っておらぬ」
理事は静かに言った。
「証しは、この品とこの証文と、お前の蔵の控えだ。三つを突き合わせれば、徽章持ちの誰の目にも書き換えは見える。来歴の目は、どこを見るべきかを教えたにすぎぬ。──扉を開けたのは、その目だ。だが、中の嘘を語ったのは、お前の品そのもの」
会頭の顔から血の気が引いた。
そのとき、会頭の目が広間の隅に止まった。
俺を、見つけたのだ。
会頭の目が見開かれた。何かを言いかけて口を閉じる。そして、もう一度俺を見た。確かめるように。
「……お前は」
会頭の声が掠れた。
「検品係の……レイ、か」
四年と少しぶりに、会頭が俺の名を呼んだ。
あの解雇の日。会頭は、俺の顔も見ずに「検品など誰にでもできる」と告げた。給金の無駄だと。あのとき会頭は俺の名を紙の上の一行としか見ていなかった。
いま、その目がまっすぐに、俺を見ていた。
「そうです」
俺は静かに答えた。
「バルロ商会で六年、検品をしていました。あなたに、解雇された者です」
会頭は言葉を失っていた。
目の前の証し。産地の偽りを暴いた目利き。それが、自分が「誰にでもできる」と切り捨てた、あの検品係だった。
会頭はよろめくように、一歩後ずさった。
「……そうか。お前、だったのか」
その声には、もう怒りはなかった。ただ、深い苦さだけがあった。
「わしは……お前を切ってから、ずっと転がり落ちてきた。返品が増えた。客が離れた。何をやっても、裏目に出た。──その元が、お前だったとは」
会頭は机の品の山を見渡した。
偽りの延べ銀。偽りの絨毯。偽りの香木。すべて、検品を抜き取りで済ませ、産地を書き換え、安く儲けようとした、その積み重ねだ。
かつて、その品を一つずつ視ていた男がいた。悪い品を弾き、嘘を見抜き、ただ淡々と良い品だけを送り出していた男が。
会頭はその男を給金の無駄だと切り捨てた。検品など誰にでもできると。
「お前が、いなくなって……」
会頭の声が震えた。
「初めて分かった。お前のしていた仕事が、どれほどのものだったか。誰にもできなかった。お前が抜けた穴を、十人がかりでも埋められなかった」
俺は何も言わなかった。
不思議と胸に湧くものはなかった。怒りも、勝ち誇る気持ちも。ただ、目の前の老いた男が少し気の毒に思えただけだ。
六年のあいだ、この人に名を呼ばれたことはほとんどなかった。検品係は、ただの数だった。良い品を弾いても、誰も気づかない。悪い品を見逃しても、誰も咎めない。そういう場所だった。
その人がいま、俺の名を二度も呼んだ。落ちるところまで落ちて、初めて。
言うべきことは、もうないように思えた。
会頭は俺に向かって、口を開きかけた。
詫びの言葉を言おうとしたのかもしれない。あるいは、まだ何かにすがろうとしたのか。その目は揺れていた。長年の意地と、覆いようのない悔いとが、その目の中でぶつかっていた。
だが会頭は、結局、何も言えなかった。
四十を超える嘘。それを信じて銭を払った数えきれぬ人々。詫びの一言で購えるものではない。会頭自身、それを誰よりも分かっていた。
会頭は口を閉じた。そして、深くうなだれた。
理事が静かに告げた。
「裁きは、組合の理事会で下す。連合じゅうの取引先を集め、被害を質し、商会の咎を定める。それまで、商会の商いはすべて止める」
会頭はうなだれたまま聞いていた。
もう、抗う言葉はなかった。まやかしと叫ぶ気力も消えていた。残ったのは、長年積み上げた嘘の重さと、切り捨てた一人の男の静かな目だけだ。
会頭はよろめきながら、広間を出ていった。
その背は、初めて会ったときよりずっと小さく見えた。
広間の隅で、フィオナが、ぽつりと言った。
「なんか……思ってたのと違う。もっと悪い奴かと思ってた」
セレネが静かに応えた。
「悪い人ではなかったのよ。ただ楽なほうを選び続けた。良いものを見抜く目より、安く儲ける道を。その積み重ねがああなった」
俺は二人の言葉を聞きながら、品の山を見ていた。
悪人がいて街が滅びたわけではない。良いものを安く買い叩き、嘘を見て見ぬふりをし、楽なほうへ流れた。その小さな選択が何十年も積もって、こうなった。それだけだった。
◇
会頭が去ったあと。俺はしばらく品の山を見ていた。
ミレイユが隣に来た。
「恨み言の一つも、言ってやればよかったのに」
俺は首を横に振った。
「いいんです。あの人を恨んでも、何も戻らない。それに──」
俺は窓の外を見た。追い出された街。だが、いまは不思議と苦い気持ちはなかった。
「追い出されたから、グラナに行けた。みんなに会えた。ありがとうって言ってもらえた。だから俺は、あの解雇を恨んでいないんです」
ミレイユはしばらく俺を見て、それからやわらかく笑った。
「……あなたは、本当に、そういう人ね」
嘘は暴かれた。だが、それは終わりではなかった。
これから連合じゅうの取引先が集まる。被害が質される。商会の咎が定められる。長年積み上げた嘘の、後始末が始まる。
偽りを信じて銭を払った人。誇りにしていた品が、偽物だった人。その一人一人に、本当のことが届けられねばならない。
俺の目は、その入り口を開けただけだ。
扉の向こうで、何が待っているのか。商会は、どう裁かれるのか。会頭は最後に、何を選ぶのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
ただ、追い出された街の空が、その日はやけに高く晴れていた。
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