第68話 帰ってきた街
四日目の昼過ぎ。馬車の窓の外に、メルダートの城壁が見えてきた。
灰色の石を積んだ、高く長い壁。その向こうに、街の屋根がびっしりと連なっている。グラナの何倍もの広さだ。城門には荷馬車の列ができていた。連合じゅうから集まる品が、ひっきりなしに出入りしている。
俺はその壁をしばらく見つめた。
四年と少し前、俺はこの門から、追い出された。乗合馬車の荷台に乗せられて。誰も見送らなかった。会頭は、解雇を告げたきり、俺の顔も見なかった。
いま同じ門が、俺を迎え入れようとしている。
「あれが、メルダート」
フィオナが窓に顔を寄せた。
「でかい街ね。これじゃ、ひとつの店が一つや二つ嘘ついたって、誰も気づかないわけだ」
その言い方が、妙に芯を食っていた。
門をくぐると、街の喧騒に包まれた。
石畳の大通り。両側にびっしりと並ぶ店。荷を担ぐ人足。値を呼ばわる商人。香辛料と、革と、人いきれの匂い。すべてが、俺の覚えているままだった。
懐かしい、とは少し違った。
俺はこの街で六年、検品場に通った。だが街の真ん中をこうしてゆっくり歩いたことはなかった。いつも荷の裏側にいた。表通りの賑わいはいつも誰か別の人のものだった。
馬車は、大通りを北へ進んだ。
「鑑定士組合の本部は、街の北にあるの」
セレネが言った。生まれ育った街だ。道を、隅々まで知っている。
「父が、待っているわ」
その途中。
馬車が、ある一角を通り過ぎた。
石塀に囲まれた、大きな建物。荷の出入りする裏門。秤と麦穂の紋。
バルロ商会の検品場だった。
俺は思わず窓に手をついた。
六年通った場所だ。あの裏門から荷が運ばれ、あの棚で荷を検めた。冬は手がかじかみ夏は埃にむせた。一日に何百という品を一つずつ視た。誰にも、ありがとうとは言われなかった。
建物は、記憶のままだった。だがどこか様子がおかしかった。
裏門に、荷馬車が一台もいなかった。
いつもなら、検品場の前は荷馬車であふれていた。荷を下ろす者。運び込む者。朝から晩まで、人が動いていた。
それがいま、しんと静まっている。
「荷が、来ていないんですね」
俺がつぶやくと、ミレイユは窓の外を見た。
「総検めで、商会の品が止められているのよ。検めが済むまで、新しい荷は動かせない。商会の血の巡りが、止まりかけている」
俺はもう一度、検品場を見た。
あの棚に、いまも主任がいるのだろうか。白髪まじりの岩のような人。俺の名に、最初に気づいてくれた人。
馬車は、検品場を後にした。だが俺の胸には、静まり返った裏門が、長く残った。
◇
鑑定士組合の本部は、街の北の高台にあった。
白い石造りの、古く堂々とした建物だ。正面に、大きな天秤の彫り物。組合の印だ。連合じゅうの品の価値を裁く、その総元締め。
馬車を降りると、一人の老人が出迎えに立っていた。
白髪の痩せた人だった。質素だが仕立てのいい外套だ。背筋が伸びている。胸に、金の徽章が光っていた。
セレネの父。組合の理事だ。
「父さん」
セレネが駆け寄った。理事は娘を見て、わずかに目元をやわらげた。それから俺のほうへ視線を移した。
「あなたが、グラナの目利きか」
俺は頭を下げた。
「レイと申します。鑑定の徽章は、持っていません。ただの、元検品係です」
理事はしばらく俺を見ていた。値踏みするようなだが冷たくはない目だった。
「徽章のない者を検めの場に呼ぶなど、組合の長い歴史でも、例がない」
理事は静かに言った。
「だがドルガの剣の証しを見た。銘の偽りを、職人の目と来歴で言い当てたという。徽章持ちが、それを裏づけた。──あなたの目は、証しにはならぬ。だがどこを検めるべきかを、誰よりも知っている」
理事は一歩、俺に近づいた。
「その目を、貸してほしい。連合じゅうの信用が、かかっている」
俺はまっすぐに理事を見返した。
「俺にできるのは、どこを見ればいいかを言うことだけです。それでよければ」
「それでいい」
理事は深くうなずいた。
理事は俺たちを本部の奥へ案内した。
長い廊下を抜けると、広間に出た。天井の高い、がらんとした石の間だ。普段は組合の寄り合いに使うのだろう。その広間が、いまは、品で埋まりつつあった。
俺は足を止めた。
長机が、いくつも並んでいた。その上に連合じゅうから集められた品が、ところ狭しと置かれている。剣。布。宝飾。陶器。香木に延べ銀。すべて、バルロ商会の保証つきで売られたものだ。
机の脇には、それぞれの品の証文が添えられていた。いつ、どこで、どの産地のものとして売られたか。その紙の束が、品と同じ数だけ積まれている。
「これを、一つずつ検めるんですか」
俺が言うと、理事はうなずいた。
「徽章持ちの鑑定士が、十人。彼らが等級と状態を読む。だが産地までは読めぬ。だからどの品の産地を疑うべきか。あなたが、その当たりをつける」
俺はずらりと並んだ品を見渡した。
その数を見ただけで、頭の奥がわずかに重くなった。来歴の目は、一日に三つか四つが限りだ。視れば疲れる。連発はできない。すべての品を、来歴で視ることなどできない。
だから絞らねばならない。怪しい品だけを。
そのための、目だ。
◇
その夜、俺たちは本部の客間に泊まった。
窓から、メルダートの夜景が見えた。無数の灯り。連合じゅうの富の集まる街。その灯りのどこかに、商会の館があり、検品場があり、会頭がいる。
「眠れる?」
ミレイユが隣の椅子に腰を下ろした。
「明日から、検めが始まる。あなたは、いちばん矢面に立つことになる」
「大丈夫です」
俺は窓の外を見たまま答えた。
「やることは、いつもと同じです。視たものを、言うだけ」
ミレイユは少し笑った。
「そうね。あなたは、いつもそうだった」
◇
メルダート。バルロ商会の館。
会頭は窓辺に立っていた。
眼下に街が広がっている。自分が長年、商いを束ねてきた街。連合じゅうに品を卸し、保証の名で利を生んできた街。
その商いがいま、根こそぎ検められようとしている。
帳面は焼いた。だが品が残る。証文が残る。それらが、嘘を語る。
会頭は机に置かれた一枚の紙を見た。組合からの召し出し状だった。総検めが済みしだい、本部へ出頭せよ。そう記されていた。
会頭はその紙を、長いあいだ見下ろしていた。
「……まだだ」
低くつぶやいた。
「まだ、終わってはおらん」
会頭は、検品場の主任を呼んだ。
白髪まじりの岩のような男だ。長年、商会の検品場を預かってきた。会頭が傾いていくのを、ずっと間近で見てきた男だった。
「蔵に、古い証文の束がある」
会頭は低く言った。
「産地を書き換えた控えだ。日付をいじった覚えもある。総検めの前に、あれを始末しておけ。焼くなり、埋めるなり。組合の手が蔵に入る前に、消すのだ」
主任はしばらく黙っていた。
それからぼそりと答えた。
「……承知しました」
会頭はそれで安心したように、背を向けた。
◇
だが主任は、動かなかった。
検品場へ戻った主任は、蔵の奥の証文の束を、ただ見下ろしていた。
産地を書き換えた控え。日付をいじった覚え。何十年分の商会の嘘が、その紙に積もっている。
焼けば、消える。会頭はそう思っている。
だが主任は、もう長くこの仕事を見てきた。嘘を嘘のままにして、いったい何が残るのか。客の誇り。作り手の汗。それを偽って積み上げた商いが、いま、足元から崩れている。
主任は束に手を伸ばした。だが火にはくべなかった。
代わりにそれを布に包み、奥の棚へ仕舞い直した。
その同じ街の北の高台で、俺が組合の門をくぐったことを──会頭は、まだ知らなかった。
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