第67話 追い出された街へ
出立の朝は、よく晴れていた。
ギルドの前に、一台の馬車が止まっていた。バッソが手綱を握っている。隊商の御者頭だ。メルダートまでの四日の道を、彼が引き受けてくれた。
「目利きのレイを乗せていくんだ。気合いが入るぜ」
バッソは日に焼けた顔で笑った。
俺は荷を積んだ。着替えと、わずかな路銀。それから机の引き出しにあった、灰色の石の一片。なまくら石だ。なんとなく、置いていく気になれなかった。
四年と少し前。俺はこの街に、ほとんど手ぶらで着いた。商会を追い出され、乗合馬車に揺られて。あのときは、行く先に何があるのかも知らなかった。
いま俺は来た道を逆にたどろうとしている。
見送りに、街の者が集まっていた。
ドニが太い腕を組んで立っていた。トーロもいる。市場の店主たち。目利き相談で世話になった冒険者たち。みな、俺を送りに来てくれた。
「親方の留守は、おれが火を見る」
ドニの弟が胸を張った。鍛冶場のことだ。ガロは街に残る。なまくら石を打てる者が、街を離れるわけにはいかない。
「行ってこい」
ガロはそれだけ言った。偏屈な老鍛冶は、よけいなことを言わない。だが俺の肩を、ごつい手で一度だけ叩いた。それで十分だった。
ミレイユが御者台の隣に乗り込んだ。
「ギルド長が街を空けていいのか、ですって? いいのよ。これは、グラナの命運がかかった検めなんだから」
俺の顔を見て、そう先回りに答えた。
馬車には、四人が乗った。
俺。ミレイユ。フィオナ。そしてセレネ。
フィオナは背に丸盾を負い、腰に剣を差していた。護衛のつもりだ。馬車に乗り込むなり、座席のいちばん俺に近いところに陣取った。
セレネは反対側に座った。胸には銀の徽章。検めの場で、レイの目を裏づける役だ。
「狭いわね」
セレネが言った。
「あんたが大荷物だからでしょ」
フィオナが言い返した。
俺は二人のあいだで、ただ前を見ていた。四日のあいだ、こんな調子が続くのだろう。そう思うと、少しおかしかった。
元商会の青年は、グラナに残った。戻ってきた偽印の荷を、まだ受けねばならない。銀の徽章はセレネ一人で足りる。青年はそう言って、見送りに手を上げた。
馬車が動き出した。
グラナの街並みが、後ろへ流れていく。市場。鍛冶場の煙。ギルドの古びた看板。四年と少しのあいだに、すっかり見慣れた景色だ。
俺はここへ来たときのことを思い出した。
追い出された日、俺は自分を、どうしようもなく無価値な人間だと思っていた。検品しかできない。誰にでもできる仕事。会頭にそう言われ、俺もそう信じていた。
いまは違う。
俺の目を、本物だと言ってくれる人がいる。視えたものを言えば、喜んでくれる人がいる。それだけのことが、こんなにも大きいとは、あのころは知らなかった。
「どうしたの。窓の外ばっかり見て」
ミレイユが振り返った。
「いえ。来たときと、逆だな、と思って」
道は、緩やかに東へ続いていた。
昼を過ぎると、景色が変わり始めた。グラナの周りの低い山が遠ざかり、ひらけた平野が広がっていく。メルダートへ近づくにつれ、土の色が変わる。畑が増える。行き交う荷馬車が増えていく。
その荷馬車を、俺はつい目で追ってしまう。
幌の張り。車輪の据わり。荷の積み方。どれも、俺がさんざん見てきたものだ。検品場へ運ばれてくる荷を、一日に何十台も検めた。荷の様子を見れば、中身のおおよそが知れた。
だがすれ違う荷馬車のいくつかには、見覚えのある紋があった。
秤と麦穂を組み合わせた印。バルロ商会の紋だ。
その紋を見た瞬間、胸の奥が、わずかに冷えた。六年、毎日見ていた印だ。憎んではいない。ただ思い出すものが多すぎる。
「あれ、商会の荷馬車だ」
俺がつぶやくと、セレネが窓の外を見た。
「ええ。総検めで品を集められて、商会も荷を動かしている。連合じゅうが、いま、ざわついているのよ」
古い大商業都市。連合じゅうの品が集まり、また散っていく街。俺が六年、働いた街。
「メルダートって、どんなところ?」
フィオナが訊いた。グラナの生まれの彼女は、行ったことがないらしい。
「大きいです。グラナの何倍も。荷馬車が、道を埋めるくらい」
「ふうん。そんなとこに、あんたみたいな人がいたのね」
フィオナは少し意外そうだった。
◇
夜は、街道沿いの宿で泊まった。
四人で食卓を囲んだ。出された干し肉を、俺はなんとなく手に取って眺めた。
「……これ、塩がきつすぎますね。古い肉に、塩を足して誤魔化してます」
ぽつりと言うと、フィオナが噴き出した。
「旅の途中でも、目利きはやめないのね」
「すみません。癖で」
セレネが笑いをこらえながら、宿の主に「別の皿を」と頼んだ。徽章を見せると、主は慌てて新しい料理を運んできた。
こういうとき、徽章は役に立つ。俺の目は、証しにはならない。だがどこがおかしいかは分かる。あとは徽章を持つ者が、確かめてくれればいい。検めの場でも、きっと同じだ。
ミレイユは、出された麦の粥を静かに食べていた。
ふと俺はこの人が街を空けたことの重みを思った。三年前に先代を亡くし、急に背負ったギルド。返せぬ借金。傾いた台所。それを少しずつ立て直して、ようやく利子の鎖を断ち切った。借金も、すべて返した。
そのギルド長が、いま、街を空けてここにいる。グラナの命運がかかっている。そう言い切って。
「ミレイユさん」
「なに?」
「俺、ちゃんとやります。グラナのために」
ミレイユは少し驚いた顔をして、それからやわらかく笑った。
「あなたは、いつもちゃんとやってるわよ。視たものを言うだけ、ってね」
◇
翌日も、馬車は東へ進んだ。
二日目になると、フィオナとセレネの言い合いも、どこか板についてきた。盾の置き場をめぐって。窓を開けるか閉めるかで。そのたびに、ミレイユが「はいはい」と二人をなだめる。
俺はその様子を眺めていた。
追い出されたあの日、俺は一人だった。乗合馬車に揺られて、誰とも口をきかず、ただ前を見ていた。
いまはにぎやかだ。言い合う声がする。なだめる声がする。同じ道を、同じ方角へ、四人で進んでいる。
同じ道のはずなのに、まるで違う道のように思えた。
◇
その夜、俺はなかなか寝つけなかった。
あと二日で、メルダートに着く。
組合の総検めが、もう始まっている。連合じゅうの品が、一か所へ集められている。何十年分の商会の嘘が、掘り起こされようとしている。
その場に、俺は呼ばれた。徽章のない、ただの元検品係が。
そして、会頭がいる。
俺を「検品など誰にでもできる」と切り捨てた、あの会頭が。あれ以来、一度も顔を合わせていない。あの街で、また会うことになるのだろうか。
会ったら、俺は何を言うのだろう。
窓の外に、メルダートの方角の空があった。星が、いつもより遠く見えた。
明日には、追い出された街が、地平線の向こうに見えてくる。
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