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第65話 沢の底

 机の引き出しに、灰色の石の一片があった。


 主任があの男に託してきたなまくら石だ。商会の蔵で打てぬまま、ずっと懐に残されていた一片。


 俺はそれを手のひらに乗せた。


 ざらついた手触り。鈍い灰色。ただの屑鉄にしか見えない。だがこの石はガロの手にかかれば化ける。並の火では伸びぬ。三打目で芯が起きる。連合じゅうの誰にも打てぬ北の特級炉鉄以上の鉄だ。


 商会は、この石を手に入れても打てなかった。打てる者がいなかったからだ。


 鍛冶場では、いまもガロが槌を振るっていた。


 その隣でドニの弟が火の番をしていた。あの図体のいい若者も、いまでは一人前に炭を見る。火の色で鉄の温みを読めるようになった。


「火の番から、鎚も握らせてもらえるようになった」


 ドニの弟が嬉しそうに言った。


「親方はまだ叱ってばかりだけどな。でも、芯の起きる音が少しずつ分かってきた」


 なまくら石を打てる者が、また一人増えようとしていた。ガロと、俺と、この若者。三人だけが知る、石を化けさせる手順だ。


 俺は手の中の一片を、もう一度見た。


 この石は、亀の沢から来た。それは分かっている。だが──沢の、どこから来たのか。


 俺たちはいつも、沢の流れの底から石を拾っている。流れに洗われて転がってきた石だ。だが石は、もとから流れの底にあったわけじゃない。どこか岩の奥から削れて流れてきたものだ。


 その、もとの場所が視えるだろうか。


 知りたい、と思った。この鉄が、本当はどこから来たのかを。


 俺は強く念じた。


 頭の奥がじんと重くなる。いつもよりずっと重い。石の来歴は、人の手を経た品よりずっと古く、ずっと遠い。


 それでも、視えてきた。


 沢の水。流れ。転がる小石。その流れをさかのぼっていく。沢の上流へ。岩肌のあいだへ。やがて一枚の岩の裂け目に行き着いた。


 そこから、さらに奥へ。


 地の底だった。


 視えたのは、地の底に眠る巨大な鉱脈だった。


 いま俺たちが拾っている沢の石など、ほんの先端にすぎなかった。流れに削れてこぼれ落ちた、かけらだ。


 本当の鉱脈は、沢の底の岩のさらに深いところにあった。灰色の鉄の筋が地の底を縦に走っている。太く、長く、果てが見えないほどに。


 ひと冬やふた冬で掘り尽くせる量ではない。何十年分。いや、もっと。


 俺は息を呑んだ。


 亀の沢の鉄は、当分尽きない。


 これまで俺たちは、いつか石が尽きるのではと、どこかで案じていた。流れの底の石をいくら拾っても、いずれ底をつくのではと。だからガロは数を絞り、俺は荒れた石を弾いて、無駄を出さぬよう気をつけてきた。


 その心配は、いらなかった。


 拾っているのは、地の底の大きな鉄の、ほんの先っぽにすぎない。沢は、尽きぬ宝の、こぼれ口だったのだ。


 俺は目を開けた。


 頭の芯が鈍く痛んだ。これまでで、いちばん重い来歴だった。しばらく机に手をついて、息を整えた。


 視たものを、すぐにミレイユに伝えた。


「沢の石は、まだまだあります。流れの底だけじゃない。もっと奥の、岩の底に大きな鉱脈が眠ってます。当分尽きません」


 ミレイユの目が見開かれた。


「……本当に?」


「はい。でも──」


 俺は言葉を選んだ。


「だからこそ絶対に、出どころを知られちゃいけない。これだけの鉄が眠ってると知れたら、商会がどんな手を使ってでも奪いに来ます」


 ミレイユはしばらく黙っていた。


 それから低い声で言った。


「沢の封鎖は、これまでどおり続ける。東の山の囮も生かしておく。この鉱脈のことを知るのは、わたしとあなた、ガロだけ。それでいい?」


「はい。それがいいと思います」


 大きな鉱脈は、力になる。だが同時に、狙われる的にもなる。


 持っているだけで人が奪いに来る。豊かさは、それ自体が危うさだ。


 俺は商会で、それをさんざん見てきた。良い品は買い叩かれる。良い目は横取りされる。良いものを持つ者は、それを守る術を合わせて持たねばならない。


 ◇


 メルダート。バルロ商会の館。


 会頭は新たな手を考えていた。


 なまくら石。あの灰色の鉄は、商会の蔵でも打てなかった。等級は最上。だが伸びぬ。化けさせる手順を、商会の誰も知らなかった。


 だが、グラナでは打てている。


 ガロという老鍛冶。そして、その弟子。彼らだけが、あの石を化けさせる術を持つ。


 ならば、石を奪うより人を奪えばいい。


 会頭は、つぶやいた。


「打てる者をこちらへ引けば、石も生きる」


 ◇


 数日後。


 グラナのガロの鍛冶場に、見慣れぬ男が訪ねてきた。


 愛想のいい中年だった。仕立てのいい上着。商会の買い付け人だ。


「親方。あんたの腕は、連合じゅうに鳴り響いている。どうだ。メルダートで商会お抱えの鍛冶として打たないか。望むだけの炭。望むだけの鉄。給金も、ここの何倍も出す」


 ガロは、槌を止めなかった。


 男のほうを見もしなかった。


「帰れ」


 ガロは、ひと言そう言った。


「わしは自分の納得した物しか打たねえ。望むだけ打て、数を出せってのがいちばん虫が好かねえ。あんたらに鉄を渡したところで化けやしねえよ。打つ手を知らねえからな」


 買い付け人の顔がこわばった。


「それは……どういう」


「分からねえだろう。分からねえまま帰んな」


 ガロはそれきり口を閉じた。槌の音だけが鍛冶場に響いた。


 買い付け人はしばらく立ち尽くしていた。それから苦い顔で引き返していった。


 ◇


 その夜。俺は鍛冶場で、ガロにそのことを聞いた。


 ガロは炭をいじりながら、ぼそりと言った。


「商会の奴ら、石が打てねえもんだから、今度は人を引きに来やがった。ドニの弟にも声をかけてくるかもしれねえぞ」


 俺ははっとした。


 石が奪えないなら、打てる者を奪う。会頭の狙いが、物から人へ移ろうとしていた。


 ガロは、首を横に振らない男だ。だがドニの弟は、まだ若い。大きな銭を積まれて、心が揺れないとは限らない。


 地の底に眠る尽きぬ鉱脈。それを打てる、わずかな手。


 商会の次の狙いは、その手そのものだった。


 俺は机に戻った灰色の一片を、もう一度握りしめた。


 守らねばならないものが、また増えた。沢の鉱脈。打てる者の手。そして、暴きかけた商会の嘘。


 どれも、こぼせば取り返しがつかない。


 だが俺は、一人ではなかった。ミレイユがいる。ガロがいる。セレネと、元商会のあの青年も。みなで分けて持てば、一人で抱えるより、ずっと落としにくい。


 追い出された街では、何もかも一人で背負わされた。ここでは違う。


 その違いが、いまの俺の、いちばんの力だった。

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