第60話 蔵を出た男
その男がギルドへ来たのは、よく晴れた朝だった。
旅装の若い男だった。痩せて目の下に隈があった。荷は小さく、長い道を一人で来たのが見て取れた。
胸に銀の色をしたものが光っていた。鑑定士組合の銀の徽章だ。
俺はその徽章に見覚えがあった。いや、徽章そのものではない。同じ徽章を商会の検め蔵で、誰かが下げていた覚えがあった。
男はギルドの戸口で深く頭を下げた。
「グラナの目利き殿にお会いしたい。──元、バルロ商会の鑑定士です」
ミレイユとセレネが警戒した顔で出てきた。商会の名を聞けば、無理もなかった。
だが男は敵意のかけらも見せなかった。
「商会は、辞めました。もうわたしには勤まらない。──いえ、勤めてはいけないと思ったんです」
男は俺を見た。疲れ切った目だった。
「あなたが元の検品係の方ですね。商会の蔵で、あなたの噂を何度も聞きました。代表の品ではなく、一つ残らず視ていた男がいた、と。底も、芯も、見抜いた男が」
俺はうなずいた。
「はい。検品係を六年やってました」
「やはり」
男はなぜか泣きそうな顔で、笑った。
「わたしは、抜き取りで検めてきました。荷の山からいくつか取り出し、それだけを視る。それが組合の習いです。徽章をかざせば、等級と状態と値が読める。それで十分だと教わってきました」
男はこぶしを握った。
「でも足りなかった。抜き取った品が良くても、山の底や芯までは視ていない。底の腐った干し肉。芯に巣のある鉄。湿気た香草。──わたしの検めをすり抜け、外れの品が商会の名で出ていった」
男の声が、震えた。
「わたしは何度も思いました。前の検品係は、全部視ていたのだと。一つ残らず。それをたった一人で。──わたしには、できなかった」
「そのうえ、会頭は」
男は言葉を詰まらせた。
「外れの品に、偽の印を押させました。あなたの目利きの印を真似て。中身の悪い品を、良い品と偽って売らせた。──わたしは、止められなかった。徽章を持ちながら、嘘の片棒を担いだんです」
男は懐から、一枚の布包みを取り出した。机に置き、ほどいた。
中から出てきたのは、古びた帳面の写しと、小さな鉄の欠片だった。
「これは、検品場の主任から預かりました」
「主任は商会に残ると言いました。残って、見届けると。──でもこれだけは、グラナへ持っていけと」
俺はその帳面の写しを手に取った。
見覚えのある字だった。俺が六年つけ続けた、弾き帳の写しだ。どの品を、なぜ弾いたか。日付ごとにびっしりと記されていた。六年分。苦情は一件もなかった。
主任が保管してくれていたものだ。それを写して、この男に託したのだ。
俺はもう一つの、鉄の欠片を手に取った。
灰色の、ざらついた石。
なまくら石だ。
「これは……沢の石ですね」
「主任がずっと懐に残していたそうです。商会の誰にも、打てなかった石。化けさせる手順を知るのは、あなたとグラナの鍛冶だけだと。──だからあなたに返すべきだと」
俺はその二つをしばらく見ていた。
弾き帳の写しと、なまくら石の一片。
どちらも、俺が商会で残してきたものだった。誰も価値を分からないまま、捨て置かれていたはずのものだ。
弾き帳など、ただの古い控えにすぎない。誰の役にも立たないと思われていた紙きれだ。なまくら石の一片も、商会では打てぬ屑鉄として転がっていたものだろう。
それを、主任はずっと持っていてくれた。
俺が雑用係として切られたあとも。商会が転がり落ちていくあいだも。いつか、これが何かの役に立つときのために。
胸の奥が、じんとした。
追い出された街にも、一人、俺の仕事を見ていてくれた人がいたのだ。
「……ありがとうございます。主任に伝えてもらえますか。確かに受け取りました、と」
男は深くうなずいた。
「それで、あなたはこれから、どうするんですか」
俺が訊くと、男は少しうつむいた。
「行く当てがありません。商会を辞めた鑑定士を、雇う物好きはいないでしょう。──ただ一度でいい。あなたの検めを、間近で見たかった。一つ残らず視るというのが、どういうことか。それを見てから、次を考えようと」
ミレイユがセレネと顔を見合わせた。
それからミレイユが口を開いた。
「うちで、働かない?」
男がはじかれたように顔を上げた。
「うちは、いま、目利き相談に人手が足りないの。あなたの徽章があれば、組合の検めとして『今の状態』を裏づけられる。──セレネと二人がかりなら、もっと多くの品が捌ける」
セレネも、うなずいた。
「抜き取りの限界を、身をもって知っている鑑定士。──それは、ここでこそ活きるわ」
男はしばらく言葉を失っていた。
それから深く、深く、頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
その声は掠れていた。
商会で疲れ果てた鑑定士が、グラナでもう一度、徽章に意味を取り戻そうとしていた。
セレネのときと、同じだった。敵だったはずの組合の人間が、一人、また一人と、グラナの検めに惹かれ、こちらへ来る。
商会の蔵から、人がこぼれ落ちていく。
◇
その日の午後。さっそく男は目利きの机の隣に座った。
俺が品を視て、悪いところを言う。男が銀の徽章をかざして、今の状態を読み上げる。セレネと合わせ、検める手が三つに増えた。
男は最初、戸惑っていた。
「全部、視るんですか。この山を、一つ残らず」
「はい。抜き取りだと、底や芯を見落とすので」
男はしばらく俺の手元を見ていた。やがて深く息をついた。
「……これだったのか。前の検品係がやっていたのは」
その目に、商会では一度も見なかった、晴れた色が戻り始めていた。徽章を持つ意味をようやく取り戻したような顔だった。
◇
その夜。俺は男から預かった弾き帳の写しをもう一度、開いた。
ふと、最後の頁の裏に別の字で、走り書きがあるのに気づいた。主任の字だった。
「会頭が、古い帳面の束を抱えて離さぬ。産地の覚え、日付の覚え。──あれは、商会が長年、隠してきたものだ。お前の目なら、いつか視えるかもしれん」
俺はその走り書きをじっと見た。
産地の覚え。日付の覚え。
商会が、長年、隠してきたもの。
戻ってきた偽印の荷の中に、商会が昔から売ってきた品も混じっていた。古い証文も紛れていた。
俺は机の上の一枚の古い証文へ目を落とした。
商会が長年隠してきた嘘の、その奥のかたちを。
知りたい、とまた思い始めていた。
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