第59話 最後の鎖
メルダート。バルロ商会の館。
会頭の前に、銀貨四百枚の包みが積まれていた。
取り立て役の男が夜通し馬を走らせて運んできたものだ。男は床に膝をつき、青い顔で報せを告げた。グラナのギルドが借りを全額返した。利子の鎖が切れた。あの後発の街は、もう商会の手の中にいない、と。
会頭はその包みをしばらく見下ろしていた。
返ってきた銀貨。それは商会の勝ちのはずだった。貸した金が利子ごと戻ってきたのだから。
だが会頭の胸に湧いたのは、勝ちの心地ではなかった。
四百枚の鎖。
それは商会がグラナを握っていた最後の手だった。
素材を買い叩けたのも。粗悪な装備を高く掴ませられたのも。あの貧乏な街が逆らえなかったのも。すべてこの借金があったからだ。借りている者は強く出られない。商会はその弱みを長いあいだ握って離さなかった。
その手がいま、ほどけた。
しかも返された銀貨は、商会の融資から生まれた金ではなかった。グラナが自分の力で稼いだ金だ。目利きの印の品が連合じゅうで売れ、その儲けで借りを返してきた。
商会の鎖を商会以外の力で断ち切ってみせた。
会頭はようやく悟った。
あの街は、もう下請けではない。属国でもない。商会と肩を並べる、一つの街になった。
会頭は窓辺に立った。
眼下に、メルダートの市場が広がっていた。かつては連合じゅうの隊商がひしめき合った市場だ。商会の名がついた荷を誰もが争って買った。「バルロ商会の保証」は、それだけで値がついた。
いまは、どうだ。
天幕の数が減っていた。荷馬車の列が短くなっていた。よその街の隊商が、メルダートを素通りし、別の街へ向かう。商会の名のついた荷を人が遠ざける。
偽の印の話が、それに拍車をかけた。
盗む商会。嘘をつく商会。その名が連合じゅうに張りつき、もう剥がれなかった。
会頭が長い年月をかけて築いた信用が足元から崩れていく。崩れる音が、聞こえるようだった。
信用というのは妙なものだ。積むのには三十年かかる。だが崩れるのは、ひと冬で足りる。良い品を千出しても誰も褒めはしない。悪い品を一つ出せば、千の良い品ごと疑われる。商人が誰より知っているはずの理だった。会頭はそれを、自分の手で確かめさせられていた。
会頭は机に戻った。
古い帳面を一冊、引き出しから抜き出した。検品場の主任が見せたあの男の弾き帳ではない。会頭自身がつけてきた商いの覚えだ。
頁を繰った。
あの男を切った日のことが、短く記されていた。「検品係を一名、解く。給金の無駄」。たったそれだけ。名前すら、書いていなかった。
誰でもできる雑用だと思っていた。見栄えのいい鑑定士を雇えば足りると思っていた。あの地味な男の代わりなどいくらでもいると。
会頭は自分が書いた一行を長いあいだ見つめた。
この一行から、すべてが転がり落ちた。返品。苦情。離れた隊商。横取りの失敗。偽の印の露見。そして今度は、最後の鎖まで断ち切られた。
すべての糸がこの一行へつながっていた。
「……分かっている」
会頭は誰もいない部屋で呟いた。
とうに分かっていた。あの男を切ったのが間違いだったと。あの男の目が商会の信用を一人で支えていたのだと。
分かっていて、なお認めたくなかった。
認めれば、自分が宝をごみのように捨てた愚かな商人だと、みずから証すことになる。長年積んできた誇りが、それを許さなかった。
ここで詫びれば、楽になれるのかもしれない。あの街へ使いを送り、非を認め、頭を下げる。だが会頭には、それができなかった。
代わりに、別の考えが胸の底で頭をもたげた。
ならば潰すしかない。
あの街が商会と肩を並べる前に。あの目が、これ以上、商会の古い商いを暴く前に。
会頭はふと、手を止めた。
あの男の目は、品の来歴まで視るという。どこで作られ、どこを通ってきたか。それを辿り、偽の印を見分けたという。
来歴を、視る。
会頭の背に冷たいものが走った。
もし、あの目が、商会の古い荷を視たら。長い年月、商会が連合じゅうへ売ってきた品を来歴まで遡ったら。
──いくつかの荷は、まずかった。
よその安い産地で仕入れた品を、名の通った産地の品と偽って売ったことがある。古い品を、新しい品と偽ったこともある。証文の日付を書き換えたことも。
それで信用を保ち、高く売り、商会は大きくなった。誰にも見抜けないと踏んでいた。
だがあの目になら。
来歴を視るあの目になら、その嘘が視えてしまうかもしれない。
会頭の手が、引き出しの奥の古い帳面の束へ伸びた。
◇
商会の検め蔵。
銀の徽章の青年が戻ってきた偽の印の荷の山を呆然と見ていた。
グラナから、続々と荷が戻ってきていた。どれにも書きつけが添えてあった。これは商会の蔵を通った偽物。組合の鑑定士が裏づけた、と。
返された荷の数だけ、商会は銭を返し、信用を失う。
「主任」と青年は震える声で言った。「もう止められません。これは、検めの甘さじゃない。商会が、自分でついた嘘です」
主任は白髪まじりの頭をゆっくりと振った。
「ああ。検め直せば済む話なら、わしも残った。だが嘘をつく商いは、検め直せん」
主任の懐には、いつかのなまくら石の一片があった。打てば化ける鉄。だが商会の誰にもそれを打つ術はない。主任はその一片をずっと懐に残してきた。いつか何かの役に立つときのために。
そのときが、近づいている気がした。
◇
会頭は古い帳面の束を机に積み上げた。
産地のこと。日付のこと。長い年月のあいだに商会がついてきた、小さな嘘の覚え。
誰にも見せたことのない、商会のもう一つの帳面だ。
これが表に出れば、商会は終わる。返品や苦情どころではない。連合じゅうの取引が、根こそぎ消える。
会頭はその束を暖炉の前へ運ぼうとした。燃やしてしまえば、嘘の証しは消える。
だが手が止まった。
燃やしても、品は残る。
連合じゅうに撒いた、偽りの産地の品がまだ、人の手の中にある。そしてあの目は、品の来歴を視る。
帳面を燃やしても、品が嘘を語ってしまう。
逃げ道は、ふさがっていた。証しを焼いても、品そのものが証しになる。隠そうとすればするほど、墓穴は深くなる。会頭の額に、脂汗がにじんだ。長い商人の年月で、こんな手詰まりは初めてだった。
会頭は束を抱えたまま、立ち尽くした。
遠いグラナで、一人の男がいままさに、古い品の来歴を視始めていることを──会頭はまだ、知らなかった。
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