第58話 銀貨四百枚
その朝、ミレイユがいつもより早くギルドへ来ていた。
受付の机の上に、古い帳面が一冊開いて置かれていた。革の表紙はすり切れて、角が丸くなっていた。何年も繰られてきた帳面だ。
ミレイユはその帳面をじっと見ていた。
「どうかしたんですか」
俺が声をかけると、ミレイユは顔を上げた。目の縁が少し赤かった。
「これね。──先代から引き継いだ借金の帳面なの」
「三年前。先代が倒れて、わたしがこのギルドを継いだとき」
ミレイユは帳面の最初の頁を指でなぞった。
「もうここには借金しか残っていなかった。商会から借りた銀貨四百枚。それに、毎月の利子が八枚」
俺は黙って聞いていた。
「先代は、街のために借りたのよ。倉庫を建て直し、冒険者の装備を揃えて。──でも返す前に倒れた」
ミレイユの声は淡々としていた。だが指先は少し震えていた。
「わたしが継いだとき、ギルドの台所は空っぽだった。毎月の利子の八枚を作るだけで精一杯。元の四百枚には手も届かなかった。商会に頭を下げて、素材を買い叩かれて、それでも利子だけは欠かさず払い続けた」
「三年間ずっと、利子の朝が来るのが怖かった」
ミレイユは帳面を繰った。頁の端に毎月の利子の支払いがずらりと記されていた。
八枚。八枚。八枚。
同じ数字が三年分。びっしりと並んでいた。
「八枚を作れなかった月は、一度もない。意地だった。先代の借りをわたしの代で踏み倒すわけにはいかなかった。──でも元の四百枚はずっと、四百枚のままだった」
利子を払い続けても、借金そのものは減らなかった。
毎月、八枚の銀貨が、ただ商会の手に流れていくだけ。
その鎖にギルドは三年つながれていた。
利子の朝が来るたびに頭を下げる。買い取りで足元を見られても黙って飲む。商会の機嫌を損ねれば次の融資が止まる。そういう暮らしだった。借りている側は強く出られない。ミレイユはずっとそれを一人で背負ってきた。
「あなたが来てから、それが変わった」
ミレイユは俺を見た。
俺が来てから、ギルドの台所は少しずつ息をつき始めた。
買い叩かれていた素材の値が正しくついた。掴まされていた粗悪な装備を、買わなくなった。ガロの武具が柱になり、目利きの印が販路になった。よその街の客まで、目利き相談に来るようになった。
利子の八枚は、もう苦しまずに払えた。
そして余りが、出るようになった。
その余りをミレイユは一枚も使わず、帳面の脇へ積み続けてきた。元の四百枚を削るために。
「最初は十枚。次の月は二十枚。少しずつ四百枚を削っていったの」
ミレイユは帳面の終わりのほうの頁を開いた。
四百という数字が、線で消され、その下に減っていく数字が書き足されていた。
三百。二百五十。百二十。
数字は月を追うごとに小さくなっていた。
「先月の終わりで、残りは銀貨四十枚だった」
ミレイユは机の引き出しを開けた。
布の包みを取り出し、机の上に置いた。
ほどくと、銀貨が積まれていた。きちんと数えて、紙で巻かれた束が、いくつも。
「偽の印の騒ぎで、本物の印の値打ちが上がったでしょう。目利きの印の品がまた売れ始めた。──そのおかげで最後の四十枚が揃ったの」
ミレイユは束を一つずつ数えた。
十枚。二十枚。三十枚。四十枚。
「これでちょうど、四百枚。──全部、揃った」
ミレイユの声がわずかに掠れた。
◇
その日の昼。ミレイユは商会の取り立て役をギルドへ呼んだ。
毎月、利子の八枚を集めに来るあの男だ。男はいつものように、利子だけを受け取るつもりで来た。気だるそうな顔をしていた。
ミレイユは机の上に銀貨の束をどんと置いた。
「利子の八枚。それと──元の銀貨四百枚。全部、返します」
男の気だるい顔が固まった。
「……四百枚? 全部いっぺんに、か?」
「ええ。これで借りはなくなる。証文を返してちょうだい」
男はしばらく動けなかった。それから慌てて懐を探り、古い証文を取り出した。手が少しもたついていた。
ミレイユは銀貨を渡し、証文を受け取った。
三年間ギルドを縛り続けた、一枚の紙だ。
男が帰ったあと。ギルドの中は、しんとしていた。
ミレイユは証文を両手で持っていた。それをじっと見つめて、それからゆっくりと胸に抱いた。
その肩が、震えていた。
「……終わった」
絞り出すような声だった。
「先代の借りも、利子の鎖も、商会の手も。──全部、終わったの。わたしの代でちゃんと返しきれた」
ミレイユは顔を上げた。目から涙が一筋こぼれていた。それでも笑っていた。
三年分の重みがその笑顔に、ぜんぶ乗っていた。
俺はその証文を、横からそっと視た。墨も紙も、もう何の力も持っていなかった。ただの古い紙きれだ。三年のあいだギルドを縛っていたものが、いまは手垢のついた一枚に戻っていた。鎖が解けるというのは、こういうことらしかった。
フィオナが駆け込んできた。話を聞きつけたらしい。
「ギルド長! 借金、返しきったって、本当?」
「ええ。本当よ」
フィオナは大声で笑って、それからミレイユに抱きついた。
「やった! やったね! もう商会に頭下げなくていいんだ!」
セレネも、静かに微笑んでいた。
「これでグラナは商会の草刈り場じゃない。──対等な一つの街よ」
ドニや、トーロや、ほかの冒険者たちも集まってきた。誰もがミレイユの肩を叩き、口々に祝った。狭いギルドの中が人で埋まった。
俺はその輪の少し外で、それを見ていた。
ミレイユが人の輪の向こうから、俺を見つけた。
涙の跡の残る顔でまっすぐに、こっちへ来た。
「レイ。──あなたのおかげよ」
「いえ。俺はただ品を視ていただけで」
「そう。あなたは、ただ視ていただけ」
ミレイユはくしゃりと笑った。
「ただ視ていただけの人が、三年、誰にもほどけなかった鎖を、ほどいてくれた」
俺は何と言っていいか、分からなかった。
ただミレイユが泣きながら笑っているのを見て、俺もなんだか、胸の奥が熱くなった。
追い出された街では、誰もこんな顔を俺に向けなかった。
ここへ来て、よかった。またそう思った。
◇
その夜。商会の取り立て役は、メルダートへ帰る道を、馬で急いでいた。
懐には銀貨四百枚。気の重い荷だった。
会頭に、何と報告すればいい。グラナのギルドが、借金を、全部返した。利子の鎖が、切れた。あの貧乏な後発の街が、もう商会の手の中にはいない。
男は夜道で、ひとり呻いた。
また一つ、商会の手から何かがこぼれ落ちた。
その報せがメルダートの会頭のもとへ向かっていた。
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