第54話 来歴の目
その夜、俺は眠れなかった。
手のひらの中の塩漬けの肉。それがいつもと違って見えた。罅でも腐りでもない。もっと奥のほう。この肉が辿ってきた道筋のようなものが、薄くにじんで視えた気がした。
気のせいだ。そう思おうとした。だが消えなかった。
俺は灯りを近づけて、もう一度、肉を視た。
知りたい。この肉が、どこから来たのか。誰が俺の名を騙ったのか。その本当のところを。
強く、そう念じた。
すると。
視えた。
遠い土地の塩田。白く乾いた地面。そこで肉が塩に漬けられる。荷に積まれ揺られ、長い道を運ばれる。やがて薄暗い蔵に着く。荷の山。秤と麦穂の紋。──商会の蔵だ。
肉は蔵の隅でゆっくりと底から傷んでいく。誰の目にも検められないまま。
そしてある日。火に焼けた鉄がその肉に押しつけられる。じゅう、と音がして、目の形が刻まれる。
俺の知らない印。
その道筋が絵のように頭の中を流れていった。
俺は息を止めていた。
肉が、語っていた。どこで作られ、何を経て、ここまで来たかを。塩田。荷馬車。商会の蔵。そして偽の印。
俺が押した品なら、こうは視えないはずだ。グラナの市場。作り手の手。俺の机。俺の押した印。その道筋が視えるはずだ。
だがこの肉の道筋にグラナはなかった。俺の机もなかった。
この肉は、一度も、俺の前を通っていない。
俺は震える手で別の品を取った。
本物の印を押した、毛皮だ。昼間、苦情の品と並べて置いてあったものだ。
同じように念じた。知りたい。この毛皮が、どこから来たのかを。
視えた。
グラナの森。狩人の小屋。鞣しの桶。市場の荷車。そして俺の机。俺の手。火に焼けた鉄。目の形の印。
全部、視えた。グラナを通り、俺の前を通り、俺の手で印を押された道筋が。
二つの品を並べて視た。
毛皮には、俺がいた。塩漬けの肉には、俺がいなかった。
印の形は同じだった。だが辿ってきた道は、まるで違った。
俺はようやく分かった。
偽物と本物を見分ける方法が。
印は真似できる。瓜二つに彫って、同じ目の形を押せる。だが品が辿ってきた道までは、真似できない。塩田を通った肉は塩田を通った道を持つ。グラナを通った毛皮はグラナを通った道を持つ。その道筋は、焼き印では刻めない。
商会は印の形だけを盗んだ。けれど品の来歴までは、盗みようがなかった。それを視られる目が、いま俺の中に開いていた。
◇
翌朝。俺は寝不足の目のまま、みんなを集めた。
ミレイユ。セレネ。フィオナ。三人を前に俺は昨夜のことを話した。品の辿ってきた道筋が視えた、と。
みんなは、しばらく黙って俺を見ていた。フィオナは半信半疑の顔。ミレイユは何かを察したような顔。セレネだけが、みるみる目を見開いていった。
俺は机に二つの品を並べてみせた。本物の毛皮。偽物の肉。同じ目の印の押された二品を、順に手に取り、もう一度、来歴を辿った。毛皮にはグラナがあった。肉には商会の蔵があった。
最初に口を開いたのはセレネだった。
「……来歴が、視えるの? 品が、どこで作られて、どこを通ってきたかが?」
「はい。たぶん。──偽の印の肉は、商会の蔵を通ってました。グラナを通ってません。俺の机も。だから偽物だと分かりました」
セレネの顔が青ざめ、それから紅潮した。
「そんな……鑑定士組合の、どんな高位の徽章でも、品の来歴までは読めない。等級。状態。価値。読めるのはそこまで。──来歴を読むなんて、伝説の中の鑑定でしか聞いたことがない」
セレネは思わず一歩、前に出た。
「レイ。あなたの目は、また一つ、奥へ進んだのよ」
俺自身はまだ半信半疑だった。
たしかに視えた。だがいつも視えるわけではなかった。試しに机の上の筆を視ても、何も起きない。茶碗を視ても、何も起きない。
視えるのは強く「知りたい」と思ったときだけだった。
しかもひどく疲れた。一つの品の来歴を視ただけで、頭の奥がじんと重くなる。視終えたあとは、しばらく耳の奥で鈍い音が鳴った。何度も続けては、視られない。
罅や腐りを視るのとは、わけが違った。あれはただ目の前の品を見るだけ。来歴を視るのは、その品が歩いてきた長い時を、まるごと辿り直すようなものだった。塩田から蔵まで。森から机まで。一つの品の一生を、頭の中で巻き戻す。だから疲れる。だから連発できない。
セレネがそれを聞いて深くうなずいた。
「それでいいのよ。その目は、たぶん、軽々しく使うものじゃない。──いつもの罅や腐りは、これまで通り視える。来歴は、ここぞというときの、切り札。そういうものなんだわ」
「切り札……」
「ええ。そして今が、まさに、そのときよ」
セレネの目に、強い光が宿った。
「偽の印を、暴くの。あなたの来歴の目で。──どの品が商会の蔵を通ってきた偽物か。どの品がグラナを通ってきた本物か。あなたになら、見分けられる」
ミレイユもゆっくりと口を開いた。
「……これは、勝てるかもしれない」
その声は静かだったが、震えていた。
「商会は、印を真似た。瓜二つの偽物を作った。形だけ盗めば、誰にも見抜けないと思った。──でも、形は盗めても、品の辿ってきた道までは、盗めない」
ミレイユは机の上の毛皮と肉を、交互に見た。
「偽物の肉は、商会の蔵を通ってきた。本物の毛皮は、グラナを通ってきた。──その違いを視られる目が、ここに、一つだけある」
フィオナがにやりと笑った。
「つまりレイがいれば、偽物は全部、ばれるってこと?」
「ええ。──公の場で、それをやればいい」
ミレイユの口の端が、上がった。
「商会が偽の印で売った品を、人前で、一つずつ。これは本物。これは偽物。商会の蔵を通ってきた偽物だと。レイの目で、はっきり、見分けて見せる」
俺は自分の手のひらを見た。
昨日まで、ただ罅や腐りを視ていた手だ。それが今は品の辿ってきた道までを映している。
なぜ、こうなったのか。俺には、よく分からなかった。
ただ一つだけ思い当たることがあった。
昨夜、俺は心から「知りたい」と思った。俺の名が騙られている。それで人が損をしている。その本当のところを知りたいと。
たぶんその気持ちが。
俺の目をまた一つ、奥へと開かせたのだ。
商会は知らない。偽の印で外れを売りさばきながら、まだ気づいていない。その偽物を、ただ一人、見分けられる目が、グラナで開いたことを。
偽の目に本物の目が、追いつこうとしていた。
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