第53話 疑われる印
偽の印の話は、数日でグラナじゅうに広まった。
はじめは遠い市の噂だった。だがその噂は商会の荷馬車の速さで近づいてきた。
目利きの印のついた塩漬け肉が腐っていた。目利きの印のついた兜が、一打で凹んだ。目利きの印のついた布が、洗ったら裂けた。どれもこれも外れだった。そしてどれにも目の形の焼き印が押してあった。
市場の人々が、首をかしげ始めた。
「あの目利きの印、当てにならねえんじゃないか」
「この前まで、外れなしって評判だったのに」
「印があっても、腐ってたって話だぞ」
俺の名で売られた外れの品が、俺の積み上げた信用を内側から食い崩していた。
信用というのは、おかしなものだ。築くのには、ひと月ふた月とかかる。一つずつ品を視て、外れを出さず、買う者の信頼を少しずつ重ねる。それでようやく、印に重みがつく。
だが崩れるのは、あっという間だった。腐った肉が一つ。凹んだ兜が一つ。裂けた布が一つ。たったそれだけで、人は疑い始める。ひと月で築いたものが、三日で痩せていく。
しかもその外れは、俺が出したものではなかった。商会が偽の印で押し付けたものだ。俺は何もしていない。何もしていないのに、俺の名だけが、薄汚れていった。
ギルドの受付には、その朝から人が並んでいた。
目利きの印のついた品を買って、外れを掴まされた人たちだ。みな手に印の押された品を持っていた。
「この肉、目利きの印があるのに腐ってた。どうしてくれる」
「うちの兜も凹んだぞ。目利きが視たんじゃないのか」
俺はその品をひとつずつ手に取った。
塩漬けの肉。たしかに底が腐っている。打ち固めた兜。鉄が薄く伸ばしすぎて、もろい。織りの布。横糸が痩せている。どれも、俺なら絶対に印を押さない品だった。
「これは、俺が視た品じゃありません」
俺は正直に言った。だがその言葉は、苦情に来た人たちには届かなかった。
「視た品じゃないって、印があるじゃねえか」
「言い逃れか? 印を押しといて、都合が悪くなったら知らんぷりか」
俺は黙った。
印はたしかに目の形をしていた。俺の押す印と見た目はまったく同じだった。並べても誰にも見分けがつかない。「これは偽物だ」と言っても、証す手立てが俺にはなかった。
苦情に来た人を、責められなかった。その人たちも被害を受けた側だ。目利きの印を信じて、なけなしの銭を払って、外れを掴まされた。腹を立てるのは当たり前だった。
俺はただ頭を下げるしかなかった。視てもいない品のために。押してもいない印のために。それがいっそう、やりきれなかった。
◇
その日の夜。ギルドの一室は、重い空気に沈んでいた。
ミレイユが机に並べた品を見つめていた。本物の印を押した毛皮。偽の印を押された塩漬け肉。二つの焼き印を、ろうそくの灯りで、何度も見比べている。
「……同じだわ。瞳の形も、まぶたの線も、端の反りも。寸分たがわない。これじゃ、誰にも見分けられない」
セレネも、自分の銀の徽章を品にかざしていた。
「徽章でも分からない。等級は品そのものを読むだけ。印が本物か偽物かなんて、徽章には映らない。──印の真贋を読める鑑定士なんて、いないのよ」
フィオナが苛立たしげに腕を組んだ。
「じゃあ、どうすんのよ。偽物の印で外れを売られて。それでレイの評判が落ちて。──こんなの、やられっぱなしじゃない」
俺はみんなの話を聞きながら、机の上の二つの品を見ていた。
毛皮と、塩漬けの肉。片方は俺が視て印を押した。もう片方は、俺の知らないところで偽の印を押された。
なのに印だけは、同じ顔をしている。
ミレイユがふっと息を吐いた。
「印を変える、っていう手もあるわ。形を複雑にして、真似しにくくする。──でも、それでも商会はまた真似てくる。彫り師さえいれば、いたちごっこよ」
「それに」とセレネが続けた。「印を変えたら、今までの印を信じて買ってくれた人が、混乱する。本物まで疑われる。──印を変えるのは、こっちが負けを認めるようなものよ」
部屋が、また静かになった。
誰も、いい手を出せなかった。印を変えればいたちごっこ。徽章でも見抜けない。本物だと言い張っても、証す術がない。商会は遠いメルダートにいて、こちらの手の届かぬところで偽の印を刷り続けている。
俺の名で外れが売られている。俺の積み上げたものが、崩されていく。それを止める手立てが、誰にもない。徽章でも分からない。印を変えても、きりがない。
俺は机の上の塩漬けの肉を、じっと見ていた。
この肉は、どこで、誰の手で、塩漬けにされたのか。どこを通って、ここまで来たのか。誰が、この肉に、俺の名を騙る印を押したのか。
それが分かれば。
偽物だと、証せるのに。
◇
メルダート。バルロ商会。
会頭のもとには、相反する二つの報せが届いていた。
一つは明るい報せ。目利きの印を押した品が、よく売れているという報せだ。蔵の外れの品が、上物の値で次々とさばけていく。
もう一つはまだ会頭の耳に入っていない報せ。偽の印の品が、各地で外れだと知れ始めている、という報せだ。
会頭は明るいほうしか見ていなかった。
「やはり、これでいい。あの目利きの値打ちは、商会のものだ。印さえ押せば、外れも上物になる。──たかが焼き印一つだ。誰にも見抜けはせん」
会頭はひとつのことを忘れていた。
その印を本物と偽物に見分けられる者が、もし一人だけ、この世にいるとしたら。
それは、印を真似られた当人。
目利きのレイ、ただ一人だということを。
◇
グラナ。夜更けのギルド。
みんなが寝静まったあと、俺は一人、机の前に座っていた。
目の前に、偽の印を押された塩漬けの肉。
俺はそれを手に取った。
俺の名が、騙られている。俺が視てもいない品に、俺の目が押されている。それで人が損をしている。だまされている。
知りたいと思った。
この肉が、どこから来たのか。誰が、俺の名を騙ったのか。──その、本当のところを。
強く、そう思った瞬間だった。
手のひらの中の肉が、ふいににじんで見えた。
いつもの罅でも腐りでもない。もっと深いところ。この肉が、どこで、どう、ここまで来たのか。その道筋が、うっすらと──視えた気が、した。
俺は息を呑んで、肉を見つめた。
気のせいだろうか。それとも。
夜のろうそくが、じりっと音を立てて燃えた。俺の目に、まだ見たことのない景色が、薄くにじんでいた。
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