第51話 看板のひび
ひと月もしないうちに、ぽつりぽつりだった苦情は、声になった。
メルダート。バルロ商会。
会頭のもとに、各地の取引先から、返品と苦情の文が束で届き始めた。
商会の名で買った干し肉の樽。底が腐っていた。商会の名で買った鉄の延べ板。打ってみたら芯に巣があって折れた。商会の名で買った香草。湿気を吸って効きが落ちていた。どれにも、商会の検めを経たという触れ込みがついていた。それが外れだった。
遠い街では、肝を冷やす騒ぎも起きていた。商会の名で買った延べ板で打った剣が、魔物との戦いの最中に根元から折れた。冒険者はあやうく命を落としかけた。商会の保証つきの品だったから、誰も中身を疑わなかった。それが芯に巣を抱えた鉄だった。
信用とは、こういうときいちばん高い代償を払う。「商会の品で死にかけた」と一度言われれば、その噂は千の良い品よりも速く広がる。
会頭は文の束を前に、顔をこわばらせた。
「……どういうことだ。検めは、したのだろう」
検め蔵から、銀の徽章の青年が呼ばれた。
青年の顔は青ざめていた。
「申し上げます。荷の量があまりに多すぎました。一人で抜き取りの検めをするのが精一杯で。樽の上は見ました。延べ板の端も見ました。袋の口も。──でも底までは、芯までは、奥までは、とても手が回りませんでした」
「ならば、人を増やせばよかろう」
「徽章持ちの鑑定士は、そうそう増やせません。それに……」
青年は言いにくそうに、続けた。
「抜き取りでは、もとより底の腐りも芯の巣も、見抜けないのです。代表の一つが良くても、残りが悪ければそれまで。──全部を視るのでなければ、はじけません」
会頭は黙り込んだ。
全部を視る。その言葉が胸に刺さった。かつて検品場に、全部を視る男がいた。会頭が誰でもできる雑用だと切り捨てた男だ。
その場には、検品場の主任もいた。白髪まじりの岩のような男だ。主任は棚の奥から、古びた帳面を一冊持ってきて卓に置いた。六年分の弾き帳。レイが残した、外れを弾いた控えだ。いつか会頭の前に一度置いた、あの帳面だった。
「会頭。この帳面のとおりに弾いていれば、こんな苦情は一つも出なかった。前に申し上げたとおりです。あの男はこれだけのものを、毎日ひとりで視ていた。──いまの蔵には、それができる者がおりません」
会頭は、その帳面に手も触れなかった。とうに分かっていた。分かっていて、なお、あの男を呼び戻せず、横取りにも失敗した。今さら帳面を見るまでもない。それが、いっそう苦かった。
◇
いっぽう、グラナでは。
商会に品を流していた作り手たちが、青い顔で、ギルドへ戻ってきた。
「商会に流した品が、外れだったって、突き返された。おれの革はちゃんと作ったのに。なんで……」
革なめしの親方が肩を落としていた。
俺はその話を聞いて、首をかしげた。
「親方の革は、いい革ですよ。俺前に視ました。外れてません」
「だ、だが商会の名で売ったら、外れだと」
俺は少し考え、それからたぶんこうだろうと思ったことを言った。
「親方の革に、商会が別の悪い革を混ぜたんだと思います。商会は、いろんな人から品を集めて、まとめて売ってます。その中の悪い革と親方の革が、商会の名でひとくくりにされて……それでまとめて外れ扱いに」
親方が目を見開いた。
「じゃあ、おれの革のせいじゃ」
「ないです。商会がちゃんと視ないで、まとめて売ったせいです」
その話は、すぐに作り手たちのあいだに広まった。
商会の名で売れば、自分の良い品も他人の悪い品と一緒くたにされる。そしてまとめて「外れ」の烙印を押される。商会の保証は看板こそ大きいが、中身を守ってくれない。
いっぽう、グラナの目利きの印は、違った。
レイがひとつずつ視て、悪いものを弾く。印のついた品は外れない。だから印のついた品だけが、苦情を出さず各地で評判を保っていた。
作り手たちは、はっきりと思い知った。
商会に流した品は、突き返された。目利きの印をつけた品は、売れ続けている。──どちらが確かか、もう誰の目にも明らかだった。
商会へ流れかけていた品が、またギルドへ戻ってきた。
「やっぱり、レイの印で売るよ。商会の看板なんか、もういらねえ」
革なめしの親方がばつが悪そうに、だがきっぱりと言った。
俺はその様子を、ぼんやり眺めていた。
よく分からなかった。俺はただ、いつも通り品を視て悪いところがあれば言っただけだ。それなのに、商会の大きな看板がひびだらけになっていく。みんながギルドへ戻ってくる。
なぜ、こうなるんだろう。俺にはその理屈が、半分しか飲み込めなかった。
その横でミレイユが、晴れやかに笑っていた。
「ね、言ったでしょ。看板は、中身がついてこなければ、いつか剥がれるって」
「ミレイユさんは、こうなると分かってたんですか」
「ええ。だって商会には、あなたがいないもの」
俺はその言葉の意味を、また半分くらい考えて、よく分からないままうなずいた。
その輪に、セレネとフィオナも加わっていた。
「鑑定士として言わせてもらえば、当然の結果ね」
セレネが、腕を組んで言った。
「品を束で抜き取るやり方では、一つの悪い品を一つの良い品で隠せてしまう。レイのやり方は、その逆。一つも隠させない。──商会は、隠す検め。レイは、隠さない検め。長く商えば、隠さないほうが残るに決まってる」
「むずかしいことは知らないけど」
フィオナが、にっと笑った。
「ざまあみろ、ってことでしょ」
「……身も蓋もないわね」
セレネが、小さく息を吐いた。
◇
メルダート。バルロ商会。
会頭は傾いた帳面を前に、歯がみしていた。
横取りは裏目に出た。グラナの品を商会の名で売ろうとして、かえって商会の名に自分で泥を塗った。外れの品を商会の保証つきで売りさばいた。隊商はまた、離れ始めている。短い持ち直しは、もう終わっていた。前よりも一段低いところへ落ちた。
階段を、また一段、転げ落ちた。
会頭は長いあいだ、考えていた。
あの目利きの男は来ない。横取りも失敗した。ならば、どうする。あの男の目が生む値打ちを商会のものにする手は、もう一つしか残っていない。
会頭は低く、つぶやいた。
「……あの目利きの印。あれを、こちらが刷ればいい」
その目に、暗い光がまた宿った。
グラナの目利きの印が、それほど効くというなら。その印を商会が真似て刷ればいい。本物そっくりの印を粗悪な品に押して売る。買う者は、見分けがつかない。
偽の印だった。
会頭は職人を呼ぶよう命じた。目の形をした焼き印を彫れ、と。
遠いグラナで、目利きのレイは、まだ知らなかった。自分の名が、自分の知らぬところで偽物に使われようとしていることを。
そしてその偽物こそが、レイの目を新しい深みへと開かせることになるのを。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




