第48話 三倍の給金
使者の男は帰らなかった。
返事をもらうまでは動かぬ。そう言って、街の宿に居座った。翌日もギルドへ来た。その翌日も来た。手土産まで携えてだ。商会の上等な品ばかりを、机にずらりと並べてみせる。
琥珀色の酒の樽。布に包まれた円いチーズ。蜜漬けの干し果実。香りの高い香辛料の小袋。どれも、グラナの市場では滅多にお目にかかれない上物だった。
「ほんの心ばかりの品でございます。皆さんで召し上がってください」
男はにこやかに言った。
俺はその品々を、何気なく眺めた。
そしていつものくせで、視てしまった。
酒の樽。中ほどまでは上等な葡萄酒だ。だが底の三寸ほどに、安酒が混ぜてある。継ぎ足してかさを増したのだろう。チーズは外側は良いが、芯に近いところがわずかに傷んでいる。あと十日もすれば、表まで黴が回る。干し果実の蜜には、水が足してあった。香辛料は、別の安い草の粉が、二割ほど混ぜ込まれている。
……どれも、ひと混ぜしてある。
「……これ、混ぜ物がしてありますね」
俺はつい、いつもの調子で言ってしまった。
使者の顔が、一瞬、こわばった。
「混ぜ物、とは」
「酒は底に安酒が。チーズは芯が傷んでます。あと十日で表まで。蜜には水。香辛料は二割ほど別の草が」
俺は見えたものを、そのまま並べた。隠すつもりも、責めるつもりもなかった。ただ、視えたから言っただけだ。商会にいた頃から、これは呼吸と同じだった。
使者はしばらく言葉を失っていた。
それからぎこちなく笑った。
「……いやこれは異なことを。当商会の品に、そのような」
「割ってみれば分かりますよ」
俺がそう言うと、男はもう何も言い返さなかった。
その手土産は、商会が「上物」として外へ売る品だった。会頭が、ギルドの歓心を買うために選ばせた、とっておきの品だったのだろう。それすら、混ぜ物がしてある。今の商会は、自分たちの売り物の中身さえ、もう分かっていない。
ミレイユが後ろで小さく息を吐いた。呆れたような、いっそ哀れむような吐息だった。
使者は咳払いをして、話を本題へ戻した。
「……レイ殿。返事を、いただきたい。会頭は給金三倍と申しました。だがそれでもご不満とあらば」
男は声をひそめた。
「四倍。いや五倍でも構わぬと、会頭は仰せです。検品の長として、商会の品をすべてお任せする。あなたの目で、商会を建て直していただきたい。これほどの厚遇は、どこを探してもございませんぞ」
五倍。
その数字に、俺はまた少し考え込んだ。
商会にいた頃の給金の、五倍。住まいまでつく。役は検品の長。考えれば考えるほど、破格の話だった。俺のような者に、なぜそこまで、と思う。
だが考えているうちに、ふと、別のことが頭をよぎった。
商会へ戻れば、また、あの検品場へ戻ることになる。あの薄暗い検品場で、出荷の品を、ひとりで黙々と視る日々。誰も、ありがとうとは言わない。ケチをつけるなと、また叱られるのかもしれない。混ぜ物を見つけても、誤差だと握り潰されるのかもしれない。
俺はグラナの受付を、見回した。
雑多な品の並ぶ目利きの机。漁師が網を持って並ぶ列。フィオナの赤い髪。ドニの斧。ミレイユの帳面。視たものを言えば、ここではみんなが笑う。
……ああ、と思った。俺はもう答えを知っていた。
「ありがたいお話です」
俺は頭を下げた。
「でもお断りします」
使者の笑みが、固まった。
「……五倍でもですか」
「はい」
「な、なぜです。グラナの給金など、商会の足元にも及びますまい。あなたほどの目を、こんな後発の小さな街で腐らせるなど」
俺は少し考えてから、言った。
「腐ってないんです、俺」
「は」
「ここでは俺の視たものを、みんなが喜んでくれます。漁師さんが網を繕って、笑って出ていく。困ってた人が、助かったと言ってくれる。──商会では、一度も、なかったことです」
使者は何も言えなかった。
「給金が三倍でも五倍でも俺はたぶん、また、あの検品場で誰にもありがとうと言われずに、品を視ることになります。それなら俺はここにいたいんです」
俺はそれだけ言って、もう一度、頭を下げた。
使者はしばらく茫然としていた。
給金で動かない男を、どう扱えばいいのか、分からないようだった。商会の理屈では、金を積めば人は動く。それが当たり前だった。だが目の前の男には、その当たり前が通じない。
男は結局手土産を置いたまま、馬車に乗って帰っていった。
その背を見送りながら、ミレイユがぽつりと言った。
「……行かないの?」
「行きません」
「五倍よ。住まいもつくのよ」
「ミレイユさんは、俺に行ってほしいんですか」
ミレイユが慌てて首を振った。
「ち、違うわよ! そうじゃなくて……」
ミレイユの頬が、ほんのり赤くなった。それから小さな声で、言った。
「……行かないでくれて、よかった」
俺はその言葉の意味を、しばらく考えた。よく分からなかった。でもミレイユが嬉しそうだったから、たぶん、これでよかったのだと思った。
◇
同じ頃。メルダート。バルロ商会。
会頭は帰ってきた使者の報告を聞いて、長いあいだ黙っていた。
断られた。五倍の給金でも。住まいをつけても。あの男は首を縦に振らなかった。
会頭にはそれが信じられなかった。金で動かぬ人間など、いるはずがない。商会で報われずに六年働いた男だ。これだけ積めば、必ず食いつくと踏んでいた。それがものの見事に外れた。
なぜだ、と会頭は思った。あの男はいったい何が欲しいのだ。
「……ならば、よい」
会頭は低く言った。
あの男が来ぬなら、来ぬでいい。だがその目が生む利だけは頂く。あの男の目利きがグラナの品の信用を作っている。ならば、その品を、商会の手で売ればいい。グラナの良い品を商会の名で囲い込む。目利きは、向こうにくれてやる。だがその目利きが値打ちをつけた品は、すべて商会が握る。
横取りである。
会頭の口の端が、わずかに上がった。
あの男を取れぬなら、あの男が作る金の流れを、まるごと取る。それでいい。商会には、まだ販路がある。隊商がある。名がある。後発のちっぽけなギルドに、商会の力で勝てぬはずがない。隊商は商会の名で動く。市場は商会の顔色をうかがう。たかが目利きひとりに、覆せる流れではない。
会頭は新しい書状を書き始めた。今度の宛先は、レイではなかった。
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