第47話 戻ってこいという文
その朝、グラナのギルドに見慣れぬ馬車が一台、止まった。
黒く塗られた立派な箱馬車だった。グラナの泥道には不釣り合いなほど磨き込まれている。車輪も傷ひとつない。荷を運ぶ車ではなかった。人を乗せて、それも、上等な人を乗せて来る車だ。御者の身なりも良かった。
俺は受付の机から、それを何気なく眺めていた。
扉の脇に、見覚えのある印が彫られていた。秤と麦穂を組み合わせた紋。──バルロ商会の紋だ。商会の荷馬車にも、検品場の壁にも、六年のあいだ毎日見てきた印だった。
胸の奥が、わずかにざわついた。なぜここに、と思った。
馬車から、年配の男が降りてきた。仕立てのいい外套。柔らかな物腰。商会の使者だと、ひと目で分かった。下働きではない。それなりの格のある男だ。男は受付を見回し、ミレイユのところへまっすぐ歩いてきた。
「グラナ冒険者ギルドのギルド長でいらっしゃいますな」
「……そうですけど」
ミレイユの声が、少し硬くなった。商会の名は、この街では良い響きを持たない。素材を買い叩かれ、粗悪な装備を高く掴まされてきた。三年間、頭を押さえつけられてきた相手だ。
「バルロ商会より使いで参りました。会頭からの書状をお持ちしました」
男は懐から一通の書状を取り出した。上等な紙だった。商会の封蝋が、朱く光っている。
書状は、ミレイユ宛てではなかった。
「こちらの書状は、御ギルドにお勤めの──レイ殿に」
男が、俺のほうを見た。
俺は自分の名が出て、思わず立ち上がった。会頭からの書状。俺に。意味が分からなかった。俺が会頭と口をきいたのは、六年のうちでただ一度。解雇を告げられた、あの日きりだ。あのとき会頭は俺を見もせず「検品など誰にでもできる」と言い捨てた。会頭にとって、俺は名前すら覚える価値のない男だったはずだ。その会頭が、俺に書状を。
「俺に、ですか」
「さよう。あなたが、かつて当商会の検品場におられたレイ殿で間違いございませんな」
「……はい」
男はにこやかに書状を差し出した。俺はそれを受け取った。封を切る手が、なぜか少しためらった。何が書かれているのか、見当もつかなかった。
文面は、思いがけないものだった。
──過日、貴殿を商会より退かせたるは、当方の不明の致すところ。貴殿の検品の確かさを、今になって痛感している。ついては、商会へ戻られたし。役は検品の長。給金は、これまでの三倍を約す。住まいも構える。
俺は二度読んだ。
それでもうまく飲み込めなかった。
「なんて書いてあったの」
ミレイユが覗き込んできた。俺は黙って書状を渡した。ミレイユの目が、文字を追っていく。その顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……戻ってこい、ですって」
「みたいです」
「給金三倍、検品の長、住まいつき……」
ミレイユが書状を握る手に力を込めた。紙が、くしゃりと音を立てた。
使者の男はなおも穏やかに笑っていた。
「会頭は心より悔いておられます。レイ殿ほどの目利きを手放したことを。商会には、あなたの目が必要なのです。グラナのような後発の小さな街で埋もれるより、メルダートの大商会で正当に遇される。レイ殿にとっても、悪い話ではございますまい」
その言葉に、俺はふと考え込んだ。
悪い話、ではないのかもしれない。給金が三倍。検品の長という役。住まいまで。商会にいた頃の俺には、考えられない厚遇だった。誰かに必要とされている。そう言われると、悪い気はしなかった。俺のような者を、わざわざ迎えに来てくれた。それはありがたいことのように思えた。
「ありがたい話だとは、思います」
俺がそう言うと、ミレイユの肩が、びくりと震えた。
◇
その夜。ギルドの奥の一室。
話を聞きつけたフィオナが、机を叩いて立ち上がった。
「冗談じゃないわ! 今さら戻ってこいって、どの面下げて!」
「フィオナさん」
「レイを追い出したのは、あいつらでしょ! さんざんこき使って、ケチつけられたって追い出して。それで、自分たちが傾いてきたら、戻ってこい? 都合がよすぎる!」
フィオナの赤い髪が、怒りで逆立つように見えた。直球で、まっすぐな怒りだった。俺のことで、ここまで怒ってくれる。それが少しくすぐったかった。
その隅で、セレネが腕を組んで座っていた。グラナに移ってきたばかりの銀の徽章は、こういうとき、やけに冷静だった。
「これは、ただの帰参の誘いじゃないわ」
セレネが静かに言った。
「商会は、レイの目が組合公認の本物だと知った。だから欲しがっている。でもそれだけじゃない。レイがグラナにいるかぎり、グラナは強くなる。商会は弱くなる。──レイを引き抜けば、二つとも片がつく。グラナから目を奪い、その目を商会のものにする。一石二鳥よ」
俺はその言葉を聞いて、首をかしげた。
そんな込み入った話なのだろうか。会頭はただ俺の検品を買ってくれただけではないのか。引き抜くだの、奪うだの。セレネの言うことは、俺には少し大げさに聞こえた。人の心は、俺には視えない。商会の会頭が何を考えているかなど、分かるはずもなかった。
「俺はただ品を視ているだけなんですけど」
「あなたがそう思っているのが、いちばん厄介なのよ」
セレネがため息をついた。
ミレイユはその晩、ずっと黙っていた。
みんなが去ったあと。受付に残って、帳面を繰っているふりをしていた。だがその手はさっきから一枚も繰っていなかった。
「ミレイユさん」
「……なに」
「俺、何か、悪いことをしましたか」
ミレイユが顔を上げた。怒ったような、泣きそうな、不思議な顔をしていた。
「悪いことなんて、してないわ」
「でも元気がないみたいだから」
ミレイユはしばらく俺を見て、それから、ぽつりと言った。
「……あなた、行っちゃうの?」
その声がいつもより小さかった。
俺は答えに詰まった。行く、とも、行かない、とも、まだ決めていなかった。ありがたい話だと思った。でもミレイユのこの顔を見ていると、何かが胸につかえた。
◇
同じ頃。メルダート。バルロ商会。
会頭は会頭室で使者からの早馬の報せを待っていた。
手応えはあるはずだった。給金三倍。役職。住まい。あの男は欲のない男だがそれでもこれだけ積めば心は動く。誰でもそうだ。正当に遇されたいと、人は思うものだ。あの男も、商会で六年、報われずに働いてきた。今こそ、その渇きを満たしてやればいい。
戻ってくれば、それでいい、と会頭は思った。
あの目を、もう一度、商会の檻の中へ。グラナから引き剥がせば、グラナはただの後発の小都市に戻る。そして商会は、あの目を取り戻して、もう一度信用を立て直す。
すべては、元のさやに収まる。
会頭はそう信じていた。
だが会頭は一つ、見落としていた。あの男が六年、商会で報われなかったのは、給金が安かったからではない。誰一人、あの男のしていることを「ありがとう」と言わなかったからだ。
その渇きは、金では満たせない。
会頭はまだ、それを知らなかった。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




