第43話 古い帳面
ゲルツが下がったあとも、会頭は会頭室に残っていた。一人きりの部屋で、燭台の火だけが長い影を壁に落としていた。
日はとうに暮れていた。机の上には、東の山の支出と検め蔵の報告が、まだ置いてある。会頭は、それを眺めるともなく眺めていた。頭の中では、いくつもの線が、もう一つの答えへ向かって近づいている。それを認めたくない自分が、まだいた。
扉が低く叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは検品場の主任だった。白髪まじりの、岩のような男。会頭の下で長く検品場を束ねてきた男だ。その手に一冊の古い帳面を抱えていた。
「主任。こんな刻限に何の用だ」
「お見せしたいものがございます」
主任は帳面を机に置いた。
ぶ厚い、使い込まれた帳面だった。背は擦り切れ、紙は黄ばんでいる。表には何も書かれていない。会頭は、けげんな顔でそれを見た。
「これは」
「弾き帳と呼んでおりました。前の検品係が検品場に残していったものです。六年分。あの男が出荷の前に弾いた品が、すべて記してあります」
会頭は帳面を開いた。
細かな字が、ぎっしりと並んでいた。日付。品の名。弾いた理由。腐りかけの干し肉。ひびの入った剣の柄。薄められた回復薬。底だけ湿気た小麦の樽。ひとつひとつが淡々と几帳面に書き込まれている。
ページをめくる。めくる。どこまでめくっても、字が途切れない。六年分。途方もない数だった。
会頭は、その字をしばらく目で追っていた。商会の鑑定士は徽章をかざし、樽の上の段から代表をいくつか抜き取って等級と価値を読む。それが組合の正しいやり方だった。だが、この帳面に記された弾き方は、それとはまるで違った。樽の底の腐敗。剣の根元の、火の回りすぎ。縄の中ほどに混じった一本の古麻。──代表を抜き取るだけでは、決して見つからないものばかりだった。
一つの樽を丸ごと視ていなければ、書けない数字だった。何百、何千という品を、すべて。
「これだけの品を」
会頭の声が掠れた。
「あの男が、たった一人で弾いていたのか」
「はい」
「主任。聞かせろ」
会頭は帳面から目を上げた。
「この六年。我が商会に、品のことで客から苦情が来たことが、何度あった」
主任は、少し間を置いて答えた。
「ございません」
「……ない?」
「一度も。あの男が検品場にいた六年のあいだ、客からの苦情は、ただの一度もございませんでした。あそこの品は確かだ。その評判を、あの男がこの弾き帳の数だけ支えていたのです」
会頭は言葉を失った。
苦情ゼロ。六年間。商会の信用は、この一冊の帳面が地面の下で支えていた。誰の目にも触れず。誰にも、その価値を語られず。ただ地味に、黙々と。
そして、その男を切ってから。返品の樽は、月に十を超えるようになった。
二つの数字が、会頭の頭の中でぴたりと重なった。
「なぜ、これを、今になって」
会頭が、低く問うた。
「お前は、これをずっと持っていたのだろう。なぜ、あの男を切るとき見せなかった。なぜ、今になって持ってくる」
主任は、しばらく黙っていた。岩のような顔が灯りの中でわずかに歪んだ。
「……あのときは、言えませんでした。一介の検品場の頭が、会頭の判断に口を挟めるものではない。そう思って、黙っておりました。追い出されていくあの男の背を、ただ見送るだけでした」
主任の声が低く沈んだ。
「ですが、ずっと悔いておりました。返品の樽が増えるたび、その悔いが深くなった。商会が坂を転げ落ちていくのを、見ているしかなかった。──もう、黙ってはおられんと思ったのです」
「なぜ、今だ」
「検証団がグラナへ向かうと聞きました。組合が、あの男の目を本物かどうか検める、と。──ならば、その前に。会頭ご自身に、本当のことを知っておいていただきたかった」
◇
会頭は、長いあいだ、弾き帳を見ていた。
六年分の几帳面な字。一人の地味な男が、誰にも顧みられず、黙々と積み上げてきた仕事。それを、自分は「誰にでもできる雑用」と切り捨てた。給金の無駄だと。
思い返せば、兆しはいくつもあった。あの男がいた頃、商会の品には不思議と当たり外れがなかった。隊商は、よその店より高くても迷わずバルロ商会で仕入れた。あそこなら間違いない、と。その「間違いない」を、誰が支えていたのか。会頭は考えたこともなかった。空気のように、当たり前にそこにあったからだ。
空気は、失って初めて、その重さを知る。あの男を切ってから、商会の品に当たり外れが出るようになった。一度ついた傷は、新しい鑑定士をいくら雇っても塞がらなかった。代表を抜き取る目では、底の腐敗は視えないのだ。
その判断が、商会を、ここまで傾けた。
「私は」
会頭が、絞り出すように言った。
「私は、宝をごみのように捨てたのだな」
主任は答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。
会頭は、椅子に深く身を沈めた。長いあいだ否定してきた問いに、もう答えが出ていた。あの男は本物だった。商会の信用は、あの男の目が一人で支えていた。それを切った自分が、すべての元凶だった。
ゲルツのせいではない。グラナのせいでもない。──自分の判断のせいだ。誰でもできると、確かめもせずに信じた。その慢心が、商会を、ここまで痩せさせた。
「主任」
会頭はしばらくして口を開いた。
「ゲルツを買い取りの頭から外す。東の山の四十枚と無断の調査者。背任は明らかだ。閑職へ回す」
「……承知しました」
「だが、それで傾いた信用が戻るわけでもない」
会頭は、弾き帳をそっと閉じた。
「失った宝は、もう戻らん。あの男はグラナで根を張ってしまった。今さら、戻ってくれと頭を下げたところで──遅すぎる」
会頭の声に、初めて悔いがにじんでいた。長く商会の頂に立ち、誰の判断も覆されたことのなかった男。その声が年老いて聞こえた。
主任は深く頭を下げ、部屋を出ていった。机の上には、六年分の弾き帳が静かに残された。誰にも顧みられなかった一冊が、今ようやく、いちばん知るべき者の手の中にあった。だが、知るのがあまりにも遅すぎた。商会の宝は、もう遠いグラナの地で、別の街に根を下ろしていた。
その夜、商会の会頭は長いあいだ灯りを消さなかった。
失ったものの大きさを、ようやくその目で見たのだった。
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