第42話 会頭の疑い
メルダート。バルロ商会の会頭室。
会頭は二枚の紙を前にしていた。
一枚は検め蔵から上がってきた報告だ。沢の欠片は等級こそ高いが、伸びず、打ち物にならぬ鉄。商会では量産できぬ。銀の徽章の青年の見立てだった。
もう一枚は帳簿方が置いていった支出の控えだ。東の山の調査に銀貨四十枚。新たな調査者に、さらに費え。どちらも買い取りを束ねるゲルツの差配。会頭の知らぬところで商会の金が動いていた。
会頭は、長いあいだ、その二枚を見比べていた。
商会はメルダートで最大手の交易商会だ。特産品の仕入れ、検品、出荷を一手に握り、街の信用を背負ってきた。あそこの品は確かだ。その評判だけで遠くの隊商が買いに来た。会頭は、その信用を継いで長く商会を率いてきた。
だが近ごろ、その信用に、はっきりと翳りが差している。返品が増え、隊商が減り、得意先が一つ、また一つと離れていく。数字の上では、まだ黒い。検品の人手を削ったぶん、費えが軽いからだ。だが、黒いのは数字だけだった。骨の中身が痩せ始めている。会頭はそれを感じ取っていた。感じ取りながら、認めずにきた。
「ゲルツを、呼べ」
ゲルツが入ってきた。垂れ目の、いつもの抜け目のない顔だ。だが、その足取りにはわずかな硬さがあった。
「お呼びで」
「東の山の調査。四十枚。私は聞いていない」
ゲルツの顔から表情が消えた。
「それは……グラナの稼ぎ場を探るための費えで」
「成果は」
「……ありませんでした。東の山には、何も」
「四十枚が、丸ごと消えたわけだ」
会頭の声は低かった。怒鳴りはしない。だが、その低さがかえって部屋を冷やした。
「そのうえ、新しい調査者を、また私に無断で雇った。書付には何を調べさせているかも書いておらん。──ゲルツ。お前、何をしている」
「会頭。これには、わけが」
ゲルツが、一歩前に出た。
「グラナが商会を通さずに食えるようになったのは、ある沢で採れる鉄のせいです。私は、その出どころを突き止めようと。あそこを押さえれば、グラナの息の根を」
「では、その鉄はどうだ」
会頭は、検め蔵の報告を指で叩いた。
「打ち物にならぬ、なまくらだったそうだぞ。お前が四十枚と新しい調査者まで使って探った沢の石は。──商会では量産できぬとな」
ゲルツが言葉に詰まった。
その顔に、初めて焦りが滲んだ。背任の穴が、会頭の目の前に剥き出しになっていた。成果のない支出。無断の差配。そのすべてが今、白日の下にあった。
「グラナを潰すと言ったな」
会頭は続けた。
「お前が音頭を取った特設市は、原価割れで撤退した。組合を使った目利き禁止も、本部が揉めて宙ぶらりんだ。東の山は空振り。沢の石はなまくら。──ゲルツ。お前のやることは、ことごとく裏目に出ている」
ゲルツは青ざめていた。
だが、ここで引けば、すべての非が自分にかぶさる。それを、この男は知っていた。だから最後の札を切った。
「すべては、あの男のせいです」
「あの男?」
「グラナの目利き。元は当家の検品係だった男です。レイ、という。あいつがグラナへ移ってから、何もかもが狂い始めた」
会頭の眉が動いた。
レイ。その名は、もう一度聞いていた。帳簿方の口から。組合の査察報告の写しから。元・当家の検品係だった男。
「あの地味な検品係か」
「は。出荷の品にいちいちケチをつける扱いにくい男でした。検品など誰にでもできると私が進言し、会頭が切った。──ですが、あの男はグラナで妙な評判を立てている。品の良し悪しを言い当てる、と」
◇
会頭は、黙っていた。
頭の中で、いくつもの線がゆっくりと一つに集まっていく。
あの男を切った。それから返品の樽が増え始めた。年に一つだった返品が、今は月に十を超える。検品の人手を減らしたから帳尻は黒い。だが、信用は痩せていく。隊商が少しずつ離れていく。
いっぽうで、その男が移ったグラナは伸びている。商会を通さずに食えるようになり、組合にまで本物と認めさせた。
追い出した街が傾き、迎えた街が栄える。その境目に、いつも、あの地味な検品係がいた。
会頭は、その男のことを、ほとんど覚えていなかった。十六で雇い、六年いた。検品場の下働き。顔も声も、はっきりとは思い出せない。ただ、出荷の品に難癖をつける扱いにくい男だという評だけが、頭に残っている。その評を吹き込んだのが、目の前のゲルツその人だった。
誰でもできる仕事だと思っていた。だから給金の無駄だと切った。新しい鑑定士を雇えば、それで穴は埋まる。そう信じて疑わなかった。合理的な判断のつもりだった。──だが、その判断のあとに起きたことは、合理では説明がつかなかった。
「ゲルツ」
会頭は、低く言った。
「お前は、あの男を切れと私に進言したな」
「は……はい。ですがそれは」
「もし。もしだ」
会頭の声が、わずかに掠れた。
「あの男が本当に、商会の信用を一人で支えていたとしたら。──私たちは、いったい何を切り捨てたことになる」
ゲルツの顔が、強張った。
それは、ゲルツがいちばん口にされたくない問いだった。あの男に価値があったと認めれば、切れと進言した自分の罪が、いっそう重くなる。
「そ、そんなはずは。検品など、誰にでも──」
「誰にでもできるなら」
会頭が遮った。
「なぜ、あの男がいなくなった途端、返品の樽が月に十を超えた。誰にでもできるなら、新しい鑑定士が、なぜそれを止められない」
ゲルツは答えられなかった。
会頭は、椅子に深く背を預けた。長いあいだ認めまいとしてきた問いが、もう目の前にあった。否定する言葉は、まだ口にできた。だが、その言葉は日に日に軽くなっていた。
「……検証団が、グラナへ行くそうだ」
会頭は、ぽつりと言った。
「組合が、あの男の目を改めて検めると。──その結果が出れば。私の問いにも答えが出るのだろうな」
会頭は、それきり口を閉じた。ゲルツは何も言えずに立っていた。かつて二人で下した一つの判断。それが今、商会の屋台骨を内側から食い破ろうとしていた。
窓の外で、商会の蔵が夕日に赤く染まっていた。
その蔵の奥に、増え続ける返品の樽が静かに積まれていた。一つ、また一つ。誰も視ようとしなかった穴が、樽のかたちで、そこにあった。
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