第41話 代弁の露見
メルダート。名家の屋敷の一室。
窓の重い帳を透かして、午後の光が細く差し込んでいた。古い屋敷だ。代々の理事を出してきた家。壁には先祖の肖像が並び、空気はいつもどこか張りつめている。セレネは、この家で生まれ育った。だが今日ほど、その重さを背に感じた日はなかった。
セレネは、また父の前に呼ばれていた。
理事会から三日が過ぎていた。検証団の人選も進み、近く一行がグラナへ発つはずだった。それなのに父の顔は、理事会のときよりも険しかった。机の上に一枚の書状が置かれている。メルダート支部の印が押されていた。
「読め」
父が低く言った。
セレネは書状を取った。目で文字を追う。
胸の奥が、すっと冷たくなった。
書状の差出人はメルダート支部の支部長だった。禿頭の、事なかれを絵に描いたような男。波風を立てぬことだけを生きがいにしてきた男だ。その男が、わざわざ本部へ書状を上げた。よほど確かな筋から話を聞いたのだろう。
誰が告げたのか。セレネには見当がつかなかった。グラナの市場には、いつも大勢の目がある。その一人が、銀の徽章の振る舞いを不審に思ったのかもしれない。あるいは、ヴァローが去り際に残した手の者が嗅ぎ回っていたのかもしれない。どちらにしても、もう遅い。書状は父の机の上にあった。
書状には、こうあった。
グラナの目利き禁止令が出て以後も、当地で無資格の目利きが続いている。しかも銀の徽章セレネ殿が立ち会い、無資格者に品を視させ、その言葉を自らの口で読み上げている。これは触れの裏をかく所業。組合の威信に関わる。──そう、支部長の字で記されていた。
収穫祭の酒樽の件だ。
あのとき、セレネはレイに視させ、自分の徽章の名で「三番、五番、九番が危ない」と読み上げた。子供や年寄りが毒の酒を飲むのを止めるためだった。だが、それを見ていた誰かが支部へ告げたのだ。
「申し開きが、あるか」
父の声は低かった。
セレネは書状を机に戻した。
「申し開きは、ありません」
セレネは、まっすぐに父を見た。
「書状の通りです。わたしは、あの目利きに品を視させ、その言葉をわたしの口で読み上げました。触れの裏をかいた。その通りです」
「分かっていて、やったのか」
「分かっていて、やりました」
父の眉が、ぴくりと動いた。
「なぜだ。お前は組合の徽章を持つ身だ。組合の触れを自ら破ったのだぞ。家の名にどれほどの傷がつくか。分からぬお前ではあるまい」
「分かっています」
セレネは引かなかった。
「でも、あのとき黙っていれば。十樽の酒のうち三樽が毒でした。村じゅうで飲む、振る舞い酒です。子供も、年寄りも。──黙って見過ごすほうが、わたしにはできませんでした」
「触れがあった」
父が声を強めた。
「無資格者の目利きを禁ずる組合の触れが、出ておった。お前は、それを承知で破った。理由が何であれ、破ったことに変わりはない」
「父上」
セレネは、一歩前に出た。
「では、お尋ねします。あの触れは何のためにあるのですか」
父が口をつぐんだ。
「組合の触れは、民を粗悪な目利きから守るためのものでしょう。怪しい鑑定にだまされて、損をする者を出さぬため。──ですが、あの触れは逆を向いています。本物の目を封じて、毒の酒を民に飲ませようとしている」
セレネの声が震えた。怒りではない。もっと深いところからの震えだった。
「視えない者が、徽章を盾に権威を名乗る。視える者が、徽章を持たぬというだけで罰せられる。──父上。それは間違っています。鑑定士の組合が、いちばんやってはいけないことです」
◇
部屋が、静まり返った。
父は、長いあいだ娘を見ていた。白髪の下の、痩せた顔。その目に、いくつもの思いが入り混じっていた。
セレネは、父の沈黙が怖かった。怒鳴られるほうが、まだ楽だった。この沈黙に何が宿っているのか、読みきれない。
「……お前は」
やがて、父が口を開いた。
「お前は、母に似てきたな」
思いがけない言葉だった。
セレネの母は、何年も前に亡くなっている。気の強い、まっすぐな人だったと聞いていた。曲がったことを何より嫌った人だと。父が、その話をすることは、めったになかった。
あの銀細工の腕輪。父が二十年、肌身離さず持っていた母の形見。グラナでレイが、その留め金に育つ見えない罅を視抜いたのだ。そろそろ折れる、直すなら今のうちだ、と。父はまだ、そのことを知らない。セレネは、まだ伝えられずにいた。
組合じゅうの誰の目にも視えなかったものを、あの目利きだけが視た。母の形見が壊れる前に、それを教えてくれた。──皮肉なものだとセレネは思った。その同じ目を、組合は今、罰しようとしている。視える者を、視えるというだけで。
「あれも、こうだった。一度こうと決めたら、わしが何を言っても引かなんだ。──正しいと思ったことを曲げなんだ」
父の声が少しだけやわらいでいた。
「困った娘だ。だが」
「困った娘だが、お前の言うことは間違ってはおらぬ」
父は、机の上の書状を指で押した。
「触れが本物の目を封じ、民に毒を飲ませる。それが正しいわけがない。お前の言う通りだ。──だが組合は、そうは動かぬ。徽章の格を守るため、目を瞑る。それが組織というものだ」
「では、父上は」
「わしは理事だ」
父は、ゆっくりと立ち上がった。
「組織の重しでありながら、その組織が間違っていると薄々気づいておる。厄介な立場よ。──だが、検証団がグラナへ行く。組合自身の目で、あの目利きを検める。そこで、はっきりする。本物か、まやかしか。それですべてが決まる」
父は窓の外へ目をやった。北の空が晴れていた。その遠い先に、グラナの街がある。娘が、これほど肩入れする街が。
「お前の代弁の件は、検証が済むまでわしが預かる。表沙汰にはせぬ。──だが、二度はないぞ」
セレネは、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、その目には、まだ言葉にしていない決意があった。検証団に自分は加われない。身内びいきと取られるからだ。それでも、あの街の行く末を、この目で見届けたかった。査察でなく、命令でもなく。ただ、自分の足で、あの街へ。
窓辺に立つ父の背は、何も答えなかった。だがその沈黙は、前のような拒みの沈黙ではない気がした。
その思いは、日に日に強くなっていた。
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