第37話 持ち帰られた欠片
翌朝、沢の調査者は消えていた。
俺たちが岩陰から見張っていたあいだに、男は荷をまとめて街道を北へ向かったらしい。バッソが朝いちばんに知らせに来た。向かった先はメルダートの方角だという。
「布の包みを、いくつも抱えてたとよ。沢の岩の欠片だ。間違いねえ」
ミレイユの顔が、こわばった。
「追いかけても、もう間に合わないわね」
「無理だ。馬車で半日は先を行ってる」
ミレイユは唇を噛んだ。
受付に、重い沈黙が落ちた。
なまくら石の欠片が商会の手に渡る。封鎖した杭も地崩れの嘘も、これで意味をなさなくなる。ミレイユが三年かけて守ってきた、商会を通さない収入の柱。その根っこが握られかけていた。
この石がギルドを変えた。亀の沢で拾われた、ただの灰色の鉱石。それが北の特級炉鉄をしのぐ鉄だと分かってから、すべてが回り始めた。ガロが鍛冶場に火を戻し、ハルバが取引を結び、キランの大店が月十五振りの武具を待つようになった。商会に頭を下げずに食っていける。その手応えをギルドは初めて掴んだ。
その出どころが、知れる。
商会は、これまでグラナを草刈り場としか見てこなかった。素材を買い叩く相手。属国のような下請け。だが、もしこの沢の石が金になると知れば。商会は本気で手を伸ばしてくる。坑を掘る人足を送り、鉱脈の権利を主張し、街ごと飲み込みにかかるだろう。それを止める力は、まだグラナになかった。
だが俺は思ったほど慌てていなかった。
「ミレイユさん。一つ、いいですか」
「なに」
「あの欠片を商会が検めても、たぶん、本当のことは分からないと思います」
ミレイユが、けげんな顔をした。
「どういうこと。あれは、北の特級炉鉄をしのぐ鉄でしょう。商会の鑑定士が見れば、すぐに値打ちが知れるんじゃ」
「等級は、知れます」
俺は、机の上に置いた小さな欠片を手に取った。ガロの鍛冶場から、選別のために預かっていた一片だ。
「でも、なまくら石の本当のすごさは等級じゃないんです。並の火では伸びない。鍛えても鍛えても、刃にならない。三打目で芯が起きる。そこを越えて、初めて化ける。──その手順を知っているのは、ガロさんと俺だけです」
ミレイユが、ゆっくりと俺の言葉を呑み込んだ。
「つまり……石を手に入れても打てない?」
「打てません。商会の鍛冶は量産の炉です。早く、安く、たくさん。そういう火です。なまくら石は、そういう火では伸びない。並の鉄だと思って打てば、ただの脆い棒になります」
「じゃあ、商会があの欠片を検めたら」
「たぶん、こう出ます。『等級は高い。だが伸びない。使いものにならない鉄だ』と」
ミレイユの目が丸くなった。それから、ふっと肩の力が抜けた。
「……だから、なまくら石なのね」
なまくら。鈍ら。切れない刃。
その名は、ずっと前から、この石の本性を言い当てていた。並の目で見れば、ただのなまくら。化けさせる手を知る者だけが、その奥を引き出せる。
「でも、油断はできません」
俺は念を押した。
「商会が『使えない鉄』と切り捨ててくれれば、それでいい。でも、もし『グラナはこの石で武具を作っている』と気づけば。次に来るのは、鍛冶のやり方を探る手です。ガロさんのところに誰か来るかもしれない」
ミレイユが、すぐに頷いた。
「ガロさんに、伝えておくわ。見慣れない客には、何も見せないで、って」
「それと、火の番の若い人にも。手順を、よそで話さないように」
ガロの鍛冶場には今、弟子が一人いる。ドニの弟が、火の番から修業を始めている。手順を守るのは、その若者にもかかっていた。
◇
その日の午後。俺はガロの鍛冶場へ足を運んだ。
偏屈な老鍛冶師はいつも通り炉の前にいた。俺の話を聞くと、ふん、と鼻を鳴らした。
「商会がこの石を欲しがる、と。笑わせる」
ガロは、真っ赤に焼けた鉄を金床に乗せた。槌を振るう。一打。二打。三打目で鉄の芯が、ぱっと色を変えた。芯が起きた音だ。長年この火を見てきたガロにしか、聞き分けられない頃合いだった。
「あいつらにこれが打てるか。早けりゃいい安けりゃいいで来た連中に。──十年かかっても無理だ」
ガロは槌を止めずに言った。
「石をくれてやってもいい。打ってみろと言ってやれ。脆い棒を量産して、また返品の山を築くだけだ」
俺は、少し笑ってしまった。
ガロの言う通りだった。商会に足りないのは石ではない。石を化けさせる、手と目だった。そしてそれは金を積んでも、すぐには買えないものだった。
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。ガロは焼けた鉄を水に沈めた。白い湯気が立ちのぼる。その向こうで、火の番の若者が息を詰めて手元を見つめていた。ドニの弟だ。図体の大きな、手の分厚い男。まだ芯を起こす頃合いは掴めていない。だが、ガロの槌を見る目だけは、日に日に真剣になっていた。
手順は人から人へしか渡らない。書付にも徽章にも写せない。何百回と槌を振り、何百回と火を見て、ようやく身につく。それが鍛冶というものだった。商会の量産の炉には、そういう時間が流れていない。早く、安く、たくさん。その三つだけを追いかけてきた炉に、なまくら石は応えない。
石は正直だった。手をかけた者にだけ奥を開く。
◇
だが、その夜。
俺は、ふと一つのことに気づいて、手を止めた。
商会が「使えない鉄」と切り捨てる。それはいい。だが、もし商会に、ただ一人でも。あの石の奥を読める目があれば。等級だけでなく、「これは並の火では伸びないが、芯を起こせば化ける」と視抜ける者がいれば。
話は、変わってくる。
そんな目が、商会にあるだろうか。
俺は自分が商会にいた頃を思い出した。検品場の主任。岩のような、白髪まじりのあの人。あの人は俺の弾いた品を、いつも黙って見ていた。何も言わず、ただ見ていた。
あの人なら、もしかしたら。なまくら石の奥を、読んでしまうかもしれない。
だが、と俺は思い直した。あの人は商会の人だ。会頭の下で長く検品場を束ねてきた人だ。仮に何かに気づいたとして、それを商会のために使うのか。それとも──。
そこから先は、視えなかった。人の心は、いつも俺には読めない。状態は分かっても、考えていることだけは、どうしても届かなかった。
窓の外で、北風が低く鳴っていた。
遠いメルダートで、灰色の欠片が、誰かの手に渡ろうとしていた。
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