第36話 沢の影
メルダート。バルロ商会の会頭室。
会頭は机に広げた帳簿を睨んでいた。
数字は表向きまだ黒い。だが、その黒の中身が変わってきていた。返品の樽が月ごとに増えている。先月は十三個。先々月は十一個。じわじわと、確実に。
売り上げは落ちていない。検品の人手を減らしたぶん費えは軽い。だから帳尻は合う。合うのだが──どこかで、何かが漏れている。砂の詰まった袋の、見えない穴のように。
会頭は、その感覚が気に入らなかった。
「ゲルツを呼べ」
ゲルツが入ってきた。垂れ目の抜け目のない男だ。買い取りを束ねて長い。
「お呼びで」
「グラナの件だ。評判を潰せと言ったな。ひと月前に。どうなっている」
ゲルツの眉が、わずかに動いた。
「手は打っています。組合に、無資格の目利きを禁じる触れを出させました。あの男は、もう銭を取って品を見ることができません。じきに評判もしぼみましょう」
「組合、か」
会頭は、指で机を叩いた。
「その組合が、揉めていると聞いたぞ。本部から出した金の徽章が、田舎の目利きに負けたとか負けないとか。挙句、嘘の報告を書いたの書かないのと。──お前、組合を当てにして、藪をつついたのではないか」
ゲルツは、答えなかった。
会頭の言う通りだった。組合は今、二つに割れている。ヴァローの処断要請と、銀の徽章の正直な報告。そのあいだで理事会が揺れている。ゲルツの打った手は、火種を組合に投げ込んだだけだった。
「……必ず、抑えます」
ゲルツは、それだけ言った。
ゲルツが下がったあと。入れ替わりに、帳簿方が入ってきた。
中立で皮肉屋の男だ。商会の金の流れを、すべて握っている。
「会頭。少々、お耳に入れたいことが」
「なんだ」
「買い取りの費えに、見慣れぬ項が二つ。──東の山の調査に、銀貨四十枚。それと先月、新たな調査者を一人。どちらもゲルツの差配です」
会頭の手が、止まった。
「東の山? なんの調査だ。私は聞いていないぞ」
「ええ。ですので、お耳に入れた次第で」
帳簿方は、淡々と続けた。
「東の山には何もありませんでした。調査隊は空振りで帰っています。四十枚は、丸ごと消えた勘定。新しい調査者のほうも、何を調べているのか、書付には記されておりません」
会頭の眉間に、深い皺が寄った。
ゲルツが、自分に無断で商会の金を動かしている。それも、成果のない調査に。四十枚。さらに、もう一人。──これは、ただの差配ではない。
「ゲルツの奴」
会頭は、低く呟いた。
だが、その怒りの底で、別の問いが頭をもたげていた。なぜゲルツは、そこまでして沢のことを探るのか。グラナに、何があるのか。
会頭は椅子に背を預けた。窓の外には、メルダートの古い街並みが広がっている。だが近ごろ、その通りには空き店が目につくようになっていた。長く商会の信用で食ってきた街。その信用が少しずつ翳りを帯びている。
すべては、グラナから始まっている気がした。
あの後発の田舎町。素材を買い叩き、属国のように見下してきた草刈り場。それが今、こちらの取引先を一つ、また一つと奪っていく。商会を通さない武具。商会を通さない素材。そして組合まで巻き込んでの騒ぎ。
その中心に、いつも一つの言葉が出てくる。
目利き。
会頭は、ふと帳簿方に問うた。
「その、グラナの目利き。名は、なんといった」
「レイ、と」
帳簿方は、淡々と答えた。
「組合の査察報告の写しに、そうありました。──元は当家の検品係だったとか」
会頭の指が、止まった。
レイ。
覚えのない名ではなかった。だが顔は思い出せない。地味で目立たない若者だった気がする。出荷の品に、いちいちケチをつける。商売の邪魔だとゲルツが言っていた。だから切った。検品など誰にでもできる。新しい鑑定士を雇えば済む。そう判断した。一年と少し前のことだ。
あの男を切ってから、返品の樽が増え始めた。
会頭は、その二つをこれまで結びつけてこなかった。たまたまだ。誤差だ。そう片付けてきた。
だが今、二つの線が頭の中でゆっくりと近づいていた。
まさか。
会頭は、その考えをすぐには口にしなかった。認めたくなかった。あの地味な検品係が、商会の信用を一人で支えていたなど。もしそうなら、自分は最悪の判断をしたことになる。
だが、引っかかった棘は、抜けなかった。
◇
同じ頃。グラナ。亀の沢のほとり。
俺とミレイユ、それにバッソは、岩陰から沢のほうをうかがっていた。
沢はミレイユがとうに封鎖している。立ち入り禁止の杭が打たれ、表向きは「地崩れの恐れあり」とされていた。なまくら石の出どころを隠すためだ。
その杭の向こうで、男が一人、岩を覗き込んでいた。
見慣れない男だった。荷も持たず、身軽な格好。だが、その目つきは旅人のものではない。何かを探している目だ。腰を屈め、岩肌に手を当て、削れた跡をじっと見ている。
「あれね」
ミレイユが、声を潜めた。
「バッソの言ってた、見慣れない男。沢を、嗅ぎ回ってる」
俺は、その男を遠目に視た。
男の腰に、小さな袋が下がっていた。道具袋だ。その中身が、うっすらと視えた。
鏨。小槌。そして、布に包んだ石の欠片がいくつか。
「あの人、岩を削って、欠片を持ち帰っています」
俺は言った。
「それと──道具に見覚えのある刻印があります。商会の買い取り蔵で使う、検めの鏨と同じ印です」
ミレイユが息を呑んだ。
「商会の手の者ってこと?」
「たぶん。あの鏨は商会の蔵の外には出ないものです。それを持っているということは」
俺は男から目を離さなかった。
石の出どころを探りに来た男。商会の道具を持っている。なまくら石の正体に、商会が手を伸ばしてきている。封鎖した杭の、すぐ向こうまで。
ミレイユの横顔が固くなっていた。
「沢が知れたら、なまくら石は終わり。ガロの武具も、ギルドの自立も。──全部、根っこを握られる」
俺は頷いた。
男はなおも岩を削っていた。布の包みが、また一つ増える。あの欠片には、なまくら石の正体が、そのまま閉じ込められている。北の特級炉鉄をしのぐ、規格外の鉄。それを読める目が、商会に一つでもあれば。
あの欠片を、誰かが視れば。あの石の本当の価値を読めば。──そのときが、来てしまうのかもしれなかった。
俺の追放を決めた街が、俺の見つけた石を追ってきている。妙な巡り合わせだと思った。だが俺には、それを止める手立てが、まだ思いつかなかった。
沢の水が、いつも通り、静かに流れていた。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




