第34話 視えても、言えない
触れが出たのは三日後の朝だった。
鑑定士組合メルダート支部の名で、一枚の紙がギルドの戸口に貼られた。禿頭の支部長がわざわざ自分で運んできたという。
ミレイユがそれを読み上げた。
「徽章を持たぬ者が、銭を取って品を見定めること。これを当面のあいだ、組合の名において禁ずる」
受付が、しんと静まった。
俺の目利き相談のことだ。名指しではない。だが、グラナでそれに当てはまるのは、俺一人だった。
「当面のあいだ、ね」
ミレイユが、低く言った。
「本部の決着がつくまで、ってことでしょう。ヴァローの嘘の報告と、セレネの正直な報告。どっちを取るか決まるまで、あなたの口を塞いでおこうって魂胆」
俺は貼り紙を見ていた。
白い紙に、黒々とした墨字。組合の朱い印が、隅に押されている。たった数行の文だ。それだけで、俺の机が一つ、消えることになる。
視えるものは、これまで通り視える。だが、それを言えば組合に逆らうことになる。ギルドにも迷惑がかかる。──視えても、言えない。そういう日が、本当に来てしまった。
不思議なものだと思った。商会にいた頃、俺の検品は誰にも顧みられなかった。誰でもできる雑用。そう言われて追放された。それがこの街では、わざわざ組合が紙を貼ってまで、止めにかかる。同じ仕事なのに。止める者がいて、待つ者がいる。世の中は、よく分からなかった。
その日から、俺は相談の机を畳んだ。
受付に並んでいた人たちには事情を話して帰ってもらった。みな不服そうだったが、組合の触れとあっては仕方がない。フィオナは「そんなの無視すればいい!」と息巻いたが、ミレイユがそれを止めた。
「だめよ。今ここで触れを破ったら、ヴァローの思うつぼ。『やはり無法者だ』って報告に書き足されるだけ」
セレネも同じことを言った。
「耐えて。今は耐えるしかないの。本部の決着まで、あと少しだから」
俺は頷いた。
けれど、こういうときに限って、視えてしまうものがある。
◇
昼下がり。市場のほうから、男が一人駆け込んできた。パン屋の親父だった。
「ギルドの目利きさん! いや、もう目利きはやめたって聞いたが──頼む! ちょっとだけ!」
男は荷車を引いていた。載っているのは酒の樽だ。それも、いくつも。
「明後日、街の収穫祭だ。振る舞い酒を安く譲るって商人が来てな。十樽まとめて買ったんだ。村じゅうで飲む。子供も年寄りも」
俺はその樽を見た。
見てしまった。
十のうち、三つ。中の酒が悪い。ただ古いのではない。仕込みのときに雑な水が混じっている。樽の内側に、よくない黴が回っている。これを飲めば腹を下すどころでは済まない。子供や年寄りなら、寝込む者が出る。
安く譲るという商人。まとめて十樽。──こういう買い方のときほど、紛れ込む。良い品の中に、捌けなかった悪い品を混ぜて流す。商会にいた頃、何度も視た手口だった。
口を、開きかけた。
だが、開けなかった。
組合の触れ。徽章なき者は、品を見定めてはならない。俺が今ここで「その三樽は危ない」と言えば、それは禁を破ることになる。支部長は、すぐにそれを聞きつける。本部への報告に、また一行が書き足される。やはりあの男は組合を侮っている、と。
俺は樽を見たまま、黙っていた。
黙っているのが、これほど苦しいとは思わなかった。
「……どうした、目利きさん」
パン屋の親父が、不安そうに俺を見た。
「何か、あるのか。あるなら言ってくれ。子供が飲むんだ」
俺は言葉に詰まった。
視えている。三つの樽が危ないと、はっきり視えている。だが言えない。言えばギルドに累が及ぶ。ミレイユの三年の苦労が、また振り出しに戻る。
こんなことが、あるのか。
視えるのに言えない。誰かが腹を下すと分かっているのに口をつぐむ。これが組合の言う「正しさ」なのか。俺には、どうしても呑み込めなかった。
そのとき。
「わたしが、見ましょう」
横から、すっと進み出た者がいた。
セレネだった。
セレネは、胸の銀の徽章に手を当てた。
「鑑定士組合、銀の徽章。セレネと申します。──この酒樽、わたしが見定めます。徽章持ちのわたしになら禁じられていない」
パン屋の親父が、目を丸くした。
セレネは樽の前に立った。そして、ちらりと俺を見た。
小さな声で、囁く。
「教えて。どれが、危ないの」
俺は息を呑んだ。
この人は分かっている。自分には視えないことを。だから俺に視させて、それを自分の口で言うつもりだ。徽章を持つ自分の名で。
俺は囁き返した。
「左から、三つ目。五つ目。九つ目です」
セレネは頷いた。
そして樽に徽章をかざし、いかにも検めるふりをして声を張った。
「この三つ──三番、五番、九番。中の酒が傷んでいます。雑な水が混じり、黴が回っている。飲めば腹を壊す。子供や年寄りには毒です。返しなさい」
パン屋の親父の顔が、青くなった。
「ほ、本当か」
「銀の徽章が言っています」
セレネは、きっぱりと言い切った。
その横顔を、俺はじっと見ていた。
パン屋の親父は何度も頭を下げて、危ない三樽を返しに走っていった。残りの七樽は無事だった。収穫祭は、つつがなく行われるだろう。
受付に戻ると、セレネが息を吐いた。
「……ずるい手だけれど」
「ありがとうございます」
俺は、深く頭を下げた。
「あなたが言えないなら、わたしが言う。視えたものを、視えたままに。それだけのことよ」
セレネはつんと顔をそむけた。だが、その耳が赤かった。
フィオナが、その様子をまた面白くなさそうに見ていた。なぜ自分が面白くないのか、フィオナ自身も分かっていない顔だった。
ミレイユだけが一人、静かに考え込んでいた。
「……セレネさん。今のやり方、本部に知れたら、あなたも無事じゃ済まないわよ」
セレネの肩がわずかに強張った。
徽章持ちが無資格者に視させて、その言葉を自分の口で言う。それは触れの裏をかくやり方だ。本部の理事──父の耳に入れば、どうなるか。名家の娘が、また田舎の目利きに肩入れした。今度は、組合の触れまで骨抜きにして。そう取られても、おかしくはなかった。
セレネは、少しのあいだ黙っていた。それから、静かに言った。
「構わないわ。父は、正直に書けと言ったの。視えたものを、視えなかったことにするほうが、よほど嘘でしょう」
その横顔には、もう迷いがなかった。
俺は、この人に守られていると思った。視えるだけの俺を、言える者が守ってくれている。それがどれほど心強いことか。一人で検品場に立っていた頃の俺は、知らなかった。
遠い街で、天秤がまだ揺れ続けていた。
だがその皿の上に、いつのまにか、もう一人ぶんの重みが乗っていた。
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