第32話 呼び戻し
メルダート。鑑定士組合、本部の奥。
セレネは長い廊下を歩いていた。
石の床が冷たく音を返す。壁には歴代の理事の肖像が並んでいた。みな彼女の家の縁者だ。父も祖父も、そのまた父も。この組合は半ばセレネの一族が支えてきた。
その重みが廊下の長さぶんだけ肩にのしかかる。みな厳しい顔で彼女を見下ろしている。九年の修練を積み、同期随一と言われた令嬢。その肩書きが、肖像の前ではひどく軽く感じられた。
呼び出しの使いが来たのは昼前だった。理事室へ来い。父からの、たった一行の文だった。用件は書かれていない。だが見当はついていた。
グラナのことだ。
あの街から帰って、もう一月になる。セレネは毎日のように、あの広場のことを思い出していた。最上等に見えた縄。それが指された一点から切れた瞬間。自分の物差しが、音を立てて崩れた、あの感覚を。
セレネは足を止めた。理事室の扉の前。一つ息を吸って、ノックをした。
部屋には父がいた。
白髪の、痩せた老人だ。窓を背にして、机の向こうに座っている。机の上には二枚の紙が並べてあった。セレネの目は、すぐにそれを捉えた。
一枚は、自分の字だった。先月、グラナの査察から戻って書いた報告書。
もう一枚は、見覚えのない字だった。だが、誰の手かはすぐに分かった。
「ヴァローの報告だ」
父が、低く言った。
「読め」
セレネは紙を取った。目で文字を追う。
組合の手順を解さぬ無資格者。確かめようのない予言を並べ、民を惑わす。組合の権威を著しく損なう。早急にしかるべき処断を求む。
読み終えて、セレネは紙を机に戻した。
手が、少しだけ冷たくなっていた。
「どう思う」
父が問うた。
「嘘です」
セレネは即座に答えた。
「ヴァローは、負けたんです。公開の検めで。それを書いていない」
「言い切るな」
父の声が、わずかに尖った。
「お前は、その場にいたのか」
「いません。ですが、分かります」
セレネは父の目をまっすぐ見た。
「あの男の目利きは、品が今どうあるかを読む技です。等級。状態。価値。そこは確かでしょう。でも、あの目は──品がこれからどうなるかまでは、視えない」
セレネは自分の胸に手を当てた。銀の徽章がそこにあった。
「わたしも同じです。視えません。これから三月で穴が開く革も、半年で折れる剣も。わたしには視えない。でも、あの男には視える。わたしは、それをこの目で確かめました」
「確かめた、と」
「縄を吊るしました。広場で。皆の前で。あの男が言った、ちょうどその一点から切れました」
父は黙っていた。
セレネは続けた。
「ヴァローも、きっと同じことをやらされたはずです。品を割って、確かめさせられた。そして、負けた。割れた品が、あの男の言葉どおりだったから。──だから、それを報告に書けなかったんです」
父は、長いあいだ二枚の紙を見ていた。
やがて、低く息を吐いた。
「セレネ。お前は、家の名を背負っている」
「存じています」
「金の徽章は、組合の頂だ。その男が、田舎の無資格者に負けたなど。もし、それが本当だとして。それを組合が認めれば、どうなる」
「徽章の格が、揺らぎます」
「そうだ」
父の指が、机を一度叩いた。
「徽章とは、九年、十年と修練を積んだ証だ。それが、なんの修練もしておらぬ男の目に劣る。──そう認めることは、この組合のすべてを否定することになる」
セレネは、父の言葉の重さを分かっていた。
分かった上で、引かなかった。
「では、嘘を認めるのですか」
「セレネ」
「ヴァローの嘘を組合が呑めば、徽章は守れます。でも、それは目を瞑ることです。事実から。──父上。鑑定士が、事実から目を瞑って、何のための鑑定士でしょう」
部屋が、しんと静まった。
父は、ゆっくりと立ち上がった。
窓のほうへ歩き、外を見た。メルダートの街並みが広がっている。成熟した、古い商業都市。だが近ごろ、その通りには空き店が増え始めていた。バルロ商会の信用が、少しずつ翳りを帯びている。それを、父も気づいているはずだった。
「お前を、もう一度グラナへ送る」
父が、背を向けたまま言った。
セレネの胸が、とくんと鳴った。
「査察ではない。事実を確かめるためだ。ヴァローの報告と、お前の報告。どちらが本当か。この目で見てこいとは言わぬ。お前の目で、もう一度見てこい」
「……はい」
「正直に書け。前のように。お前の報告が家に泥を塗るものであってもだ」
その言葉に、セレネは父の顔を見上げた。
叱責ではなかった。前にグラナから帰ったとき、父はセレネを叱った。名家の娘が無資格の田舎者を持ち上げてどうすると。家の名に泥を塗る気かと。あのとき父の声は、怒りでこわばっていた。
だが今は違った。
父は、迷っている。徽章を守りたい気持ちと、事実から目を背けたくない気持ちのあいだで。組合の頂に立つ家の当主が、その重みのすべてを背負ったまま、それでも娘に「正直に書け」と言った。
その迷いが、セレネには嬉しかった。
セレネは、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、その目には別の光も宿っていた。父の知らない、もう一つの理由が。
負けたままでは終われない。
あの街を去るとき、自分でそう言った。あれは査察役としての言葉ではなかった。セレネ自身の言葉だった。
もう一度、あの男に会える。
その思いを、セレネは胸の奥にそっと畳んだ。
◇
同じ頃。バルロ商会の検品場。
主任が、棚の奥から一冊の帳面を取り出していた。前の検品係が残した弾き帳だ。六年分。クレームはゼロ。岩のような男の太い指が、その背をなぞる。
隣で、銀の徽章の青年が樽を覗き込んでいた。
「主任。また底が傷んでます。代表で抜いた上の段は、何ともないのに」
「だろうな」
「樽ぜんぶを開ければ分かる。でも、それじゃ間に合わない。あの男は──全部を、開けずに視ていたんですか」
主任は答えなかった。ただ帳面を、また棚の奥へ戻した。
誰にも見られぬよう、いちばん奥へ。
◇
その夜。セレネは旅装を整えていた。
卓の上に、一つの品を置く。父から預かった検めの品だ。明日、馬車で発つ。グラナまで、また四日の道のりだった。
ふと、銀の徽章を品にかざしてみた。古い銀細工の腕輪だった。等級。状態。価値。すらすらと読める。
だが、それだけだった。
この腕輪が、これからどう変わるか。どこかに見えない傷が育っているのか。セレネには、何も視えなかった。
あの男なら、視えるのだろう。
窓の外で、馬がいなないた。
セレネは腕輪を仕舞い、灯りを消した。
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