第26話 利子の朝
月初めの朝。ギルドの受付に、商会の取り立て役が立っていた。
毎月、決まった日に来る男だ。受け取るのは銀貨八枚。ギルドが商会から借りた四百枚の、その利子だった。
三年間、ミレイユはこの男に頭を下げ続けてきた。待ってくれと。来月にはと。そのたびに足りない分を、どこかから工面してきた。安い依頼を引き受けた。自分の食う分を削った。そうやってなんとか八枚をかき集めてきた。
だが、今日は違った。
「八枚。確かに」
ミレイユは銀貨を一枚ずつ机に並べた。きっちり八枚。一枚も欠けていない。
取り立て役は、少し意外そうな顔をした。
「……今月は、揃ってるのか」
「ええ。来月も再来月も。もう、待ってもらう必要はないわ」
男は銀貨を集め、布袋に落とした。じゃら、と硬い音がした。
扉を出ていく背中を、ミレイユはまっすぐ見送った。今日は頭を下げなかった。
◇
扉が閉まると、ミレイユは長く息を吐いた。肩から力が抜けていく。
「……三年よ」
「はい」
「三年間、あの音が嫌いだったの。銀貨が袋に落ちる音。あれを聞くたびに、ああ、また商会に持っていかれる、って思ってた」
ミレイユは机の上を指でなぞった。さっきまで銀貨が並んでいた場所だ。
「でも、今日は平気だった。これはギルドが自分で稼いだお金だもの。頭を下げて借りたんじゃない。あなたが目利きで稼いで。ガロさんが武具を打って。冒険者がちゃんと依頼をこなして。みんなで稼いだお金」
「みんなで、ですね」
「そう。みんなで」
ミレイユは、ふっと笑った。それから少し照れたように目を逸らした。
「ありがとう、レイ。あなたが来てくれなかったら、わたし、今ごろギルドの看板を下ろしてた」
「俺は、視ているだけなので」
「また、それ」
ミレイユは、軽く俺の肩を小突いた。
「少しは、自分のしたことを誇りなさいよ」
誇る。俺には、まだその感覚がよく分からない。
ただ、ミレイユが笑っているのは悪くなかった。それだけは、はっきりしている。
◇
昼。受付に、フィオナとドニが顔を出した。
ドニは、骨接ぎ通いを続けている。歩き方が前よりずっとまっすぐになった。左に逃げる癖が、少しずつ消えている。
「レイ! 聞いてよ。ドニの弟、ガロ爺さんのとこで弟子入りしたんだって」
「ええ。火の番と、炭の世話から始めるそうです」
「あいつ、もう毎日真っ黒になって帰ってくるんだ。でも、やけに楽しそうでよ」
ドニが太い腕を組んで笑った。
「鉄を打つ仕事なんざ、もう街から消えると思ってた。それがまた、若いのが入った。お前のおかげだな、レイ」
「俺は、石を選っているだけです」
「はいはい。出た、それ」
フィオナが肩をすくめた。それから、にやりと笑う。
「ねえ、知ってる? 街の人たち、あんたのこと『目利きのレイ』って呼んでるのよ。市場でも、ギルドでも。困ったことがあると、まずレイに聞け、って」
「目利きの、レイ」
くすぐったい呼び名だった。
商会にいた頃は、誰も俺の名前なんて呼ばなかった。「検品の」。「倉庫の」。それで十分だと思っていた。名前などなくても仕事はできる。そう思っていた。
ここでは、みんなが俺を名前で呼ぶ。
それがどうしてか、悪くなかった。
◇
夕方、市場を歩いた。
八百屋の女房が俺を見つけて手を振った。
「目利きのレイ! この前の桃、当たりだったよ。あんたの言った通り、三日置いたら甘くなった」
「よかったです」
魚屋の親父も、台の向こうから声をかけてきた。
「おう、レイ。今朝の鯵、どうだ。活きはいいか」
俺は台の上の一匹を視た。
「いいです。腹もしっかりしています。ただ、左の桶のは昨日のが混ざっています」
「げっ。ばれたか」
親父が頭をかいた。周りの客が、どっと笑った。
市場の品が、少しずつよくなっている。みんなが悪い品を出しにくくなったからだ。俺が視ると分かってしまう。だから初めから、まともな物を並べる。
街そのものが、ゆっくりとまっとうになっていく。
俺は、ただ品を視ているだけだ。それなのに。
◇
その夜。ミレイユが、帳面を閉じて言った。
「ねえ、レイ。これからのことだけど」
「はい」
「ガロさんの武具と、なまくら石。それに目利き相談。ギルドはようやく、商会を通さずに回り始めた。──でも、それって」
ミレイユの声が、少しだけ硬くなった。
「商会から見れば、いちばん面白くないことよ。今まで頭を押さえつけてきた相手が、急に自分の足で立ち始めた。きっと黙ってない」
「ちょっかいを、かけてくると」
「もう、かけてきてるじゃない。安売り市も、組合の査察も。ぜんぶ、商会の手でしょ」
ミレイユはまっすぐ俺を見た。
「次が来るわ。たぶん、もっと大きいのが」
俺は頷いた。
次が来ても、やることは変わらない。腐った品を腐っていると言う。折れる剣を折れると言う。それだけだ。
「来たら、また視ます。いつも通りに」
ミレイユは少し笑って、それから少し、泣きそうな顔をした。
「……あなた、ほんとにぶれないわね」
◇
メルダート。バルロ商会、会頭の部屋。
会頭は、一通の書状をしたためていた。羽根ペンが、上等な紙の上を滑る。
宛先は鑑定士組合の本部。グラナの支部ではない。連合じゅうの鑑定士を束ねる、頂点の組織だ。
『当家の交易の信用を確かめるため、最上位の鑑定士の派遣を請う』
表向きの口実は、それだった。だが会頭の狙いは、別にあった。
グラナの目利き。組合の令嬢が「本物」と認めた、元検品係の男。あれを上から叩き潰す。
銀の徽章の娘が認めたなら、それより上の徽章を連れてくればいい。金の徽章を。
金の徽章。組合でも、ひと握りしかいない最上位の鑑定士。
その一人が、いまちょうど手が空いていると聞いた。腕は確かだという。だが同時に、ひどく傲慢な男だとも。誰の目利きも認めない。地方の田舎者など歯牙にもかけない。そういう男だと。
「銀が認めたものを、金が否む。──それで、あの娘の報告もひっくり返る」
会頭は筆を置いた。書状に、商会の蝋印をぐっと押し込む。
組合の格の高い鑑定士。その派遣は、ひと月も前にゲルツが打診していた話だった。それを今、会頭が自ら本気で動かす。
グラナの空に、まだ見えない新しい影が差そうとしていた。
それが銀よりもずっと厄介な影だということを。
レイは、まだ知らない。
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