第25話 会頭の問い
メルダート。バルロ商会の、会頭の部屋。
壁には大商人の肖像がずらりと並ぶ。先代。先々代。みな立派な顎髭をたくわえている。床には毛足の長い絨毯。窓には一枚物の硝子。この街でいちばん金のかかった部屋だった。
その絨毯の上に、ゲルツは立たされていた。
机の向こうで会頭が一通の写しを指で弾いている。鑑定士組合の、査察報告の写しだ。
「ゲルツ。これを読んだか」
「は。組合の、査察役の報告かと」
「グラナの目利きを、組合の令嬢が本物と認めた。『組合の鑑定に勝るとも劣らず』とな」
会頭の声は静かだった。怒鳴りはしない。この男は静かなときがいちばん機嫌が悪い。長年仕えたゲルツには、それがよく分かっていた。
「お前は前に言ったな。グラナで銭を取って鑑定を騙る男がいる。それは元、当家の検品係だと」
「……申し上げました」
「検品係が、なぜ組合に認められる」
ゲルツは口の中が乾くのを感じた。
◇
「あの男は、ただの倉庫の下働きでございました」
ゲルツは慎重に言葉を選んだ。一語でも踏み外せば会頭の機嫌は奈落まで落ちる。
「会頭が見栄えのいい鑑定士を雇われ、不要として切られた。当然の差配かと。組合の娘が何を血迷ったかは存じませんが、地方の田舎者を持ち上げて自分の名を売ろうとしたのでしょう」
「名を売る、か」
会頭は、写しを机に置いた。指先で、とん、と紙を押さえる。
「名家の令嬢が、わざわざ地方の無資格者を持ち上げて何の名が売れる。逆だ。あれを認めれば自分の格が下がる。それを承知で書いたのだ」
ゲルツは答えられなかった。
「つまり、嘘を書けなかった。それほどの目だったということだろう」
会頭の指が、机をとんと叩いた。乾いた音が広い部屋に響いた。
「ゲルツ。検品など誰でもできると言ったのは、お前だったな」
ゲルツの心臓が、跳ねた。
「……いえ。それは、会頭が」
「私が言ったか?」
会頭の目が、すっと細くなった。
ゲルツは、背筋が冷えるのを感じた。
会頭は、自分の下した判断を決して失策とは認めない男だ。都合が悪くなれば、それを誰かの差し金にすり替える。今、その誰かに自分がされかけている。
ここで逆らえば、検品係を切った責めを、まるごと背負わされる。
「……失礼いたしました。私の、進言でございました」
「そうだ。お前の進言だ」
会頭は満足げに頷いた。背もたれに、ゆったりと体を預ける。
「ならば、お前が始末をつけろ。当家を出た男が、よそで成功しているなど外聞が悪い。グラナの評判を潰せ。お前の責任でな」
◇
会頭の部屋を出たゲルツの背は、汗で濡れていた。
責めを、押しつけられた。だが、それより危ういものがある。
東の山だ。
ひと月前。ゲルツは会頭に無断で東の山へ調査隊を送った。費えは銀貨四十枚。グラナの稼ぎ場を一人で探り当て、手柄にするつもりだった。誰の助けも借りず、自分一人の功にする。そう企んだ。
その調査隊は、空振りで帰ってきた。東の山には鉱脈も沢も、何もなかった。
四十枚は、丸ごと無駄になった。しかも会頭の帳簿には載せていない。
成果が出れば穴は埋まる。出る前に表に出れば、ただの背任だ。商会の金を、無断で私的に動かした。それが知れれば、ゲルツの首はその日のうちに飛ぶ。
会頭が今、グラナを気にし始めている。少しでも内側を探られれば、東の山の一件まで、芋づるで掘り返されかねない。
ゲルツの焦りは、損の額ではなかった。その一点に、すべてがあった。
◇
「早く、何か一つでいい」
宿に戻ったゲルツは、暗い部屋で独りごちた。
会頭に誇れる成果が要る。グラナの評判を潰し、ついでに稼ぎ場も押さえる。そうすれば、東の山の穴も、誰にも気づかれぬまま、ひとりでに消える。
稼ぎ場。あの目利きの男が、どこかから良い鉄を仕入れている。それは間違いない。ガロとかいう老鍛冶が急に上等な武具を打ち始めた。元はどこかの山か沢のはずだ。その出どころさえ押さえれば、会頭に誇れる手柄になる。
「沢を、押さえる」
ゲルツは、新しい調査者を雇うことにした。
今度は、隊商の荷に紛れ込ませる。塩売りは前に見破られた。今度はもっと用心深く。物を売るふりすらせず、ただ荷の流れを見張らせる。
グラナのギルドが、どこから鉄を運び出しているか。その荷の出どころを、こっそりたどらせる。
また会頭に無断の、私的な手だ。穴の上に、もう一つ穴を掘る。
だが、もう止まれなかった。止まれば、東の山の穴が、ぽっかり口を開けて待っている。
◇
同じころ。商会の、検品場。
薄暗い土間に、樽が並んでいる。出荷を待つ品の山だ。
白髪まじりの主任が、銀の徽章の鑑定士と向かい合っていた。岩のような体つきの主任と、痩せた若い鑑定士。二人の間には、一冊の古い帳面が置かれている。
弾き帳だ。前の検品係が、六年かけて書きためた、弾いた品の控え。その間、商会へのクレームは一度もゼロを割らなかった。
「あれから、また数えてみました」
鑑定士の声は、疲れていた。
「私が入ってから、返品の樽が月に十一。あの男の頃は、年に二つか三つ。──桁が、違うんです」
「あんたは、よくやってる」
主任は、静かに言った。
「徽章をかざして数字を読む。それが組合の鑑定だ。間違っちゃいない。だがあの男は」
「数字に出ないものを、視ていた」
鑑定士は、帳面のへりを撫でた。
「樽の底の腐り。柄の中の錆。継ぎの溶け残り。ぜんぶ、ここに書いてある。私には、樽を割って初めて分かるものばかりだ。あの男は割らずに視ていた」
主任は、窓の外を見た。日が傾いている。
「会頭は認めんよ。認めれば、自分の差配が間違いだったことになる。だから誰も口には出せん」
「……主任。私は、いつまでここにいられるんでしょうね」
鑑定士の声が、低く沈んだ。
主任は、答えなかった。
ただ、弾き帳をそっと閉じて、棚の奥へ戻した。誰にも見えない、いちばん奥へ。
商会は今月も帳面の上では黒字だった。検品の人件費を削ったぶん、数字は持ち直している。会頭はその数字を見て、まだ何も間違っていないと思っている。
だが返品の樽は月ごとに増えていく。信用は、目に見えぬ速さで削れていく。階段を、一段ずつ下りるように。
いつか、これが要る日が来る。弾き帳が。
そんな気が、なぜか、していた。
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