第218話 アロイス・ヴァルダー
「どうぞ、おかけください」
ヴァルダーは自分から椅子を引いた。俺のためにだ。盟主が、検品係のために椅子を引いた。俺は戸惑ってそのまま立っていた。
「立っていたいのでしたら、それでも」
男は気を悪くしたふうもなく自分の席にゆっくり腰を下ろした。卓をはさんで向かいに座る。その卓に、あの見本の品が並んでいた。麦の穂。鉄の塊。革の切れ端。塩の壺。
「さっきの鉄」
ヴァルダーが言った。
「道具にするための鉄だと、あなたは言った。剣にはしない、と。……なぜ分かりました」
「焼き加減です」
「剣にするなら、もっと鍛えて粘りを出します。この鉄は焼いたままです。粘りより硬さを取ってある。硬い鉄は打ち物の刃に向きません。でも、くわやなたなら、これでいい」
「そのとおりです」
ヴァルダーはうなずいた。それから塩の壺を俺のほうへ押した。
「では、これは」
俺は壺に指を入れた。塩をつまむ。舌に乗せた。
……しょっぱい。それから、少し苦い。
「海の塩ですね。煮て取った塩じゃない。日に干した塩だ。にがりが少し残っています。焼き物には向きません。漬け物なら、このほうがいい」
ヴァルダーは今度は麦の穂を寄こした。
「では、これは」
俺は穂を手のひらでもんだ。粒が落ちる。指でつぶす。中の白いところを見た。
「パンにする麦です。種には向きません。粒は揃っていますが、芽の力が弱い。まいても、まばらにしか出ないでしょう。……挽いて食う麦です」
ヴァルダーはしばらく俺を見ていた。
目の端のしわが、また少し深くなった。
「面白い」
男は言った。悪びれない声だった。
「あなたは、品に用途を返す。この塩はどこの海か、ではなく、この塩は何に使うか、と視る。……検め手というより、使い手の目だ」
俺は返事にこまった。褒められているのは分かった。だが何を褒められているのかが分からない。塩をなめれば、にがりが残っているかどうかくらい、誰でも分かる。
「あの」
「これは、誰でも分かります」
「誰も分かりません」
ヴァルダーは即座に言った。静かだが、迷いのない声だった。
「私の盟には、塩を検める者が四十人います。みな、あなたより速い。壺を見ただけで、にがりの残りを言い当てる。舌に乗せるまでもない。……ですが、その四十人の誰一人、この塩を漬け物に使えとは言いません。言う必要がないからです」
男は塩の壺を元の場所へ戻した。
「彼らの仕事は、この塩が線の内側にあるかどうかを言うことです。用途は、買い手が決める。それでいい。それで、回る」
◇
俺の後ろでハイデがずっと黙っていた。
この人は盟主の顔を見に来た。帳面に名前の載らなかった亭主の、その名前を奪った男の顔を。二十年、その顔を思い描いてきたはずだ。
だが卓の向かいに座っているのは小さな男だった。
背は低い。太ってもいない。手にはタコがある。声を荒らげない。人の話を最後まで聞く。……どこにでもいる、少し疲れた年寄りだった。
ハイデは化け物を見に来たのだ。人を数にして平気で切り捨てる化け物を。そういう男を二十年、憎んできた。……だが目の前にいるのは化け物ではなかった。
それが、いちばんつらいのだと思う。憎む相手がこんなに小さくて、こんなに疲れて見えることが。
ハイデはその男をどう見ていいのか分からずにいた。俺にはそれが分かった。
「あなたが、ハイデさんですね」
ヴァルダーがふいにそちらを見た。
ハイデの肩がびくりと動いた。
「門の街の、宿の女将だ。ザマーから聞いています。まっとうな商いを一人で通そうとしている、と。立派なことだ」
「立派なもんか」
ハイデが低い声で言った。
「あんたらが二十年、うちの街を食い物にしてきただけだ」
広間が静かになった。
ヴァルダーは、怒らなかった。
「そうかもしれません」
男は静かに言った。
「私の盟は大きい。大きいものは、遠くの誰かを踏んでいる。踏んでいないと言うつもりはありません。……ですが、女将。私の盟がなければ、この土地の村は、今も飢えていました」
男は窓のほうを見た。窓の外に、あの倉の山脈が見えた。
「私が若いころ、この海べりは飢えた土地でした。村と村が、隣同士でだましあっていた。私は、それを一つにまとめた。道を引いて、値を決めて、船を出した。今、この裾野で飢える者はいません」
「そのかわり」
ハイデが言った。
「はみ出した者は、名前ごと消える」
「はみ出さないように、線を引くのです」
ヴァルダーは即座に答えた。
やはり悪びれなかった。
「線の内側にいれば、飢えない。それが、いちばん多くの人を、いちばん豊かにするやり方です。九十七を満たすために、三を切る。私は、そう決めた男です。悔いてはいません」
俺はあの三十七本目の車軸を思い出した。背負い袋の中の、折れる木。中に水を抱えた木。
この人はあれを三と呼ぶ。
◇
「レイさん」
ヴァルダーが俺に向き直った。
「あなたに来ていただきたい理由を、正直に申し上げます」
男は卓の上で手を組んだ。太いタコのある手だった。
「私の盟は、線を引くのは得意です。ですが、線そのものが正しいかどうかは、もう誰にも分からない。四十人の塩の検め手は、線の内か外かを言う。線が高すぎないか、低すぎないかは、言いません。言えないのです。線を引いた者は、もう死んでいますから」
「……線を、引いた人」
「私の父です」
ヴァルダーは言った。
「四十年前に。私は、その線を守ってきただけだ。守って、広げてきた。……ですが、あなたのような目があれば、線そのものを、もう一度引き直せるかもしれない」
俺は黙っていた。
この人の言うことは大きすぎてうまくのみこめなかった。線を引き直す。四十人の検め手の線を。十万の車軸の線を。……そんなことを、俺の目に。
俺の目は、辻ひとつを回すのがやっとだった。門の街の秤ひとつ。豆の老人ひとり。革の老職人ひとり。それを一人ずつ視て、やっと一つずつだった。線を引き直すなど、考えたこともない。
「今日、返事をとは言いません」
ヴァルダーは立ち上がった。
「まず、見てください。私の盟の検めを。手に取らずに良い悪いを言わない方だと、聞いています。ならば、盟を手に取ってから決めてください」
俺は思わず顔を上げた。
それは俺がいつも言っていることだった。手に取らずに良い悪いは言わない。それをこの人はどこで聞いたのだろう。ザマーからか。……この盟は俺のことを、俺が思うよりずっとよく調べていた。それが少しだけこわかった。
「明日、検め場をお見せします」
ヴァルダーは静かに笑った。
「あなたが、いちばん驚く場所です」
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