第216話 格上への道
その夜、ハイデの宿の板場に、四人が集まった。
ハイデ。フィオナさん。ヴィオラさん。それから山から下りてきたノア。
卓の上には、あの三十七本目の車軸が置いてあった。ザマーが「差し上げます」と言って置いていったものだ。折れる木。中に水を抱えた木。……この街のどこにも、まだ渡っていない一本。
「ドルトだよ」
ヴィオラさんが言った。
「盟の都の名さ。行ったことはない。連合の商人で、あそこまで行った者はほとんどいない。……遠いんだ。この街から、まだ十日は行く」
ヴィオラさんは指で卓に線を引いた。
「この土地の荷は、ぜんぶ、そこへ流れてる。塩も、鉄も、革も、山の石も。ここで採れたものがドルトへ運ばれ、ドルトで値をつけられ、また世界じゅうへ散っていく。……あんたが見た街道の隊商。あれの行き着く先がドルトさ」
「行くべきだと思いますか」
俺が聞くと、ヴィオラさんは片眉を上げた。
「商人なら行くね。相手の懐に入らずに相手の商いは分からない。……でもレイ。あんたは商人じゃない。行けば飲みこまれるかもしれないよ。あの誘いは、悪意でできてない。悪意で誘われるより、よっぽど断りにくい」
……その通りだ、と思った。
ザマーの話は正しく聞こえた。今も正しく聞こえている。九十七を救うために三を切る。──俺には、それが間違っていると言い切れない。俺の目は年に十万の車軸を視られない。
「あたしは、行くよ」
ハイデが低い声で言った。
板場の火を見たまま、こちらを見ずに。
「二十年前、うちの亭主も呼ばれたのさ。にこにこ笑って、丁寧で、そろばんみたいに冷たい男に連れられて。いい話だと思って出かけていったんだ。帰ってきたときには、下請けの証文を握らされてた」
ハイデはようやくこちらを向いた。
「あんた一人を同じ道へ行かせやしないよ。……あたしは、あの帳面に名前の載らなかった男の女房だ。載らなかった側の顔を、あいつらの都で見せてやる」
俺は何も言えなかった。
ノアが腕を組んだまま口を開いた。
「山が心配だ」
ぼそりとした声だった。
「あんたが視ただろう。あの奥の、青い筋。まだ届かねえが、ありゃ本物だ。……盟が山に手を伸ばしたら、あの山は掘り尽くされて捨てられる。掘り尽くされた山は二度と戻らねえ」
ノアは卓の車軸を顎で指した。
「そいつと同じさ。百のうち三。……山も、そのうちの三になるんだろ。だったら、おれも行く。おれの山の話をする奴が、おれ抜きで決めるのは気に入らねえ」
「あたしは言うまでもないだろ」
フィオナさんが槍を立てた。
「あんたが行くなら、あたしは行く。前も後ろもあたしが見る。……盟の都だろうがなんだろうが、槍の届く間合いは変わらないからな」
俺は卓の車軸に手を置いた。
断ることもできた。
この街に残って、辻の秤を守って、七人に見分けを教えて、まっとうな品を一つずつ増やしていく。……それでも、たぶん街はよくなっていく。ゆっくりと。俺の目の届く範囲だけ。
だが、それでいいのか。
俺はザマーの言葉を、まだ言い返せていない。
線を引くやり方が正しいのか。俺のやり方が正しいのか。……分からなかった。分からないまま断るのは、視ないで値をつけるのと同じだ。それは俺のやり方じゃない。
俺は品を視るとき必ず手に取る。手に取らずに良い悪いは言わない。
だったら、この盟も手に取らなければならない。
「行きます」
俺は言った。
「視てきます。……盟の、いちばん奥を」
◇
出立は、三日後になった。
その三日で街は思いのほか騒がしくなった。
辻の秤のまわりに人が集まった。俺が出ていくと聞いて、わざわざ来たらしい。
「なあ、旦那。行っちまうのか」
油売りが言った。
「……戻ってこないのか」
「戻ります」
「本当だな? 本当に戻るんだな?」
豆の老人が念を押した。それから袋を一つ、俺の手に押しつけた。
中は豆だった。俺は視た。……新しい。よく乾いている。虫もいない。この街で老人が売っている、いちばんいい豆だ。
「持ってけ。旅の飯にな」
「いえ、こんな。売り物じゃないですか」
「売り物だから、持ってけって言ってるんだ」
老人はぶっきらぼうに言った。
「あんたが来るまで、わしの豆はこの街でいちばん売れなかった。まっとうに乾かしてる分、高いからな。……今は売れる。売れた豆だ。持ってけ」
革屋の老職人が背負い袋を持ってきた。
俺は視た。……まっとうな革だった。あの三十年の革だ。縫い目が太い。留めが二重になっている。旅で雨に降られても中まで濡れない作りだ。
「これは、あなたの……」
「息子と、二人で縫った」
老職人はそれだけ言った。それから深く頭を下げた。
……俺は困った。
俺は何もしていない。この人たちの品はもともとまっとうだったのだ。俺はただ、まっとうだと言っただけだ。それを言う人がこの街にいなかった。それだけのことだ。
「あの、俺は、本当に、何も」
「分かってるよ」
ハイデが横から言った。
「みんな、それが分かってるから、こうしてるんだよ。……いいから、もらっときな」
俺には、その理屈がよく分からなかった。
◇
ヨナが宿の裏で待っていた。
「おれも行く」
ヨナが言った。目が真っ赤だった。
「……連れてってくれよ。おれ、荷を担ぐ。飯も炊く。じゃまはしない」
俺はしゃがんで、ヨナの目を見た。
「ヨナ。頼みがあります」
「なんだよ」
「字を、覚えていてください」
ヨナがまばたきをした。
「俺が戻ってくるまでに。帳面が読めるように。……そうしたら、この街の職人の名前を、あなたが書けます。俺じゃなくて」
ヨナは口を開けたまま、しばらく黙っていた。
「……おれが、書くのか」
「はい。俺の字は下手ですから」
ヨナは袖で顔をこすった。それからうなずいた。
この街には、もう辻の秤がある。しるしの帳面がある。薬の見分けを知る七人がいる。……俺がいなくても、たぶん回る。
連合のグラナがそうだったように。
◇
出立の朝、金の輪の列が門の外で待っていた。
その十二台の荷馬車の後ろに、俺たちの小さな荷馬車が一台。ヴィオラさんが手配してくれたものだ。
「気をつけな」
ヴィオラさんは、ここまでだった。帆は連合へ戻る。
「あたしは、あんたの後ろ盾にはなれない。あの盟と正面からやりあえる商人なんて、この世にいないよ。……でもね」
ヴィオラさんはにやりと笑った。
「連合には、あんたの帳面がある。あんたの名前を知ってる目利きが何百人もいる。──それは、あの金の輪にはないものさ。せいぜい持っていきな」
俺は荷を背負った。
革の背負い袋。豆の袋。しるしの帳面。……そして、あの三十七本目の車軸。
列が動きはじめた。
金の輪。輪の中の、山。その紋の連なりの、いちばん後ろについて、俺たちの小さな一台がゆっくりと進みだす。
この道の先に、盟の都がある。
その奥に、まだ一度も会ったことのない男がいる。
──アロイス・ヴァルダー。
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