第215話 大きな取引
荷馬車は十二台あった。
金の輪の紋を掲げた列が辻をふさぐようにして止まった。街の人が黙って端に寄る。誰も文句を言わない。……街道で見たあの列の、ほんの一部。それでもこの街には大きすぎた。
ザマーが降りてきた。
「レイさん。お久しぶりです」
物腰はあのときと同じだった。やわらかい。丁寧だ。目だけが笑っていない。
「今日は、ご挨拶ではありません」
ザマーは言った。
「商いの話に、参りました」
◇
ハイデの宿の板場に、ザマーは書きつけを広げた。
細かい字がびっしり並んでいる。数字。品目。日付。……見ているだけで頭が痛くなるような紙だった。だがザマーはそれを、指一本でするすると辿っていく。
「盟は、この街に荷継ぎ所を置きます」
ザマーは言った。
「山の道が使えるようになった。あなた方のおかげでね。荒れた坑道に、また人が入りはじめた。この街はこれから、この土地の荷の集まる場所になります。……盟は、そこに手を打っておきたい」
俺は黙って聞いていた。
「荷継ぎ所の起点は、この宿がよろしい。街でいちばん人が集まる。女将、あなたの宿を借りたい。──もちろん、値は弾みます。この街の相場の、三倍で」
ハイデは何も言わなかった。板場の柱に背を預けたままじっと動かない。
「それから」
ザマーは俺のほうを見た。
「この街の品を、盟が一括で買い上げます。革も、鉄も、薬種も、山の石も。値は今の倍。買い叩きはしません。……そのかわり検めの役を、あなたに」
……検め。
「あなたが視て、通した品だけを盟が買う。あなたの目が値をつける。この街の職人は、初めてまっとうな値で売れる。街は潤う。盟は良い品を得る。あなたは、その真ん中に座る」
ザマーは書きつけを俺のほうへ滑らせた。
「悪い話ではないでしょう」
……悪い話ではなかった。
むしろ俺がやろうとしていたことと、ほとんど同じだった。まっとうな品に、まっとうな値を。この街の職人が報われる。ヴィオラさんの帆より、ずっと大きな流れで。
だから俺は困った。
この人の言うことは正しいように聞こえる。なのにどこかがおかしい。それが何なのか、俺にはまだ言葉にできなかった。
「その前に、一つ、見ていただきたい」
ザマーが手を上げた。
荷馬車から、男たちが荷を下ろしはじめた。
◇
辻に、盟の品が並べられた。
車軸。留め金。帯革。……隊商の装具の一式だった。荷馬車を走らせるための、地味な部品ばかり。
「千を、この街に卸します」
ザマーが言った。
「この土地の隊商は、粗末な装具で走っている。だから壊れる。壊れれば荷が止まる。盟の装具なら止まらない。──ご覧のとおり、まっとうな品です。ものは試しに、視ていただきたい」
俺は車軸を手に取った。
……堅い木だった。まっすぐで節がない。削りも丁寧だ。留め金の鉄はよく焼けている。帯革は厚みが均一で、なめしも上等。
「いい品です」
俺は正直に言った。
ザマーの目が細くなった。
俺は次の車軸を取った。次も。次も。
十本。二十本。……並んだ車軸を端から順に視ていった。
三十七本目で、手が止まった。
「……ダメですね、これ」
俺は言った。
その車軸には割れがあった。
外からは見えない。表面はつやつやしている。……だが中だ。木の芯に、細い割れが走っている。若い木を、乾かしきる前に削ったのだ。外はきれいでも、中に水が残っている。それが抜けるとき木は裂ける。
「荷を積んで、坂を下ったときに折れます。……たぶん、二度目か三度目の坂で」
辻が静かになった。
ザマーは驚かなかった。
うっすらと笑ってうなずいただけだった。
「さすがですね。……ええ。三本ほど、混じっているはずです」
俺は耳を疑った。
「……ご存じ、だったんですか」
「ええ」
ザマーは事もなげに言った。
「盟にも検めはありますよ。当たり前でしょう。千の車軸を作れば乾かしの甘いものが混じる。木は生き物ですからね。我らの検めは、百のうち三までを通します。それが線です。三までなら、割に合う」
……割に合う。
「壊れたら替えを送ります。文句を言ってきた者には詫びて新しいものを渡す。それで済む。──千のうち三十を作り直すより、そのほうが安い。それが、効率です」
ザマーは書きつけの数字を指でなぞった。
「盟主のお言葉です。──いちばん多くの客に、いちばん多くを。九十七を満たすために三を切る。切らねば、九十七に届かない」
板場の柱のところで、ハイデが小さく息を吸う音がした。
俺は三十七本目の車軸を、まだ手に持っていた。
◇
「ザマーさん」
俺は言った。
「その三本は、誰のところへ行くんですか」
ザマーが俺を見た。
「……と、言いますと?」
「千のうち三本です。九百九十七の人は、何ごともなく荷を運びます。……でも、三人は違う。その三人は、坂で車軸が折れます。荷が崩れます。……坂の下に人がいるかもしれない」
「替えを送ります」
「折れたあとにですよね」
ザマーは黙った。
俺は続けた。うまく言えない。だが言わなければならない気がした。
「その三人にとっては、百分の三じゃありません。……その人にとっては、ぜんぶです。その人の車軸は、一本しかないんですから」
辻は静かだった。
ザマーはしばらく俺を見ていた。それからゆっくりとまばたきをした。
「……そういうお考えの方は、たまにおられます」
その声には悪意がなかった。怒りもなかった。ただ少しだけ、あわれむような響きがあった。
「ですが、レイさん。それは商いではない。──情です。情は数えられない。数えられないものを商いに入れれば、商いは回らなくなる。……あなたのその目で、千の車軸を一本ずつ視ますか? 万の車軸を? 十万を? 盟は、年に十万の車軸を売るのですよ」
俺は答えられなかった。
できない。……できるはずがない。俺の目は一つだ。この街の辻ひとつを回すのがやっとだ。年に十万など、視られるわけがない。
「だから、線を引くのです」
ザマーは静かに言った。
「線を引かねば、九十七は救えない。三を惜しめば百がまるごと動かなくなる。──我らは、悪いことをしているのではありません。いちばん多くの人を、いちばん豊かにしているのです」
……その通りだ、と思った。
思って、しまった。
だが俺の手の中には、まだあの三十七本目の車軸があった。折れる木。中に水を抱えた木。……誰かの手に渡る木。
この人は、この木を数えている。
俺は、この木を視ている。
そこだ、と俺は思った。
この途方もなく大きな流れの、たった一つの、ほころび。──盟は品を視ていないわけじゃない。ちゃんと視ている。ただ数で視ている。数で視れば、三は三でしかない。三の顔は見えない。名前も見えない。
ハイデの亭主が、帳面に名前の載らないまま切り捨てられたのと、同じだ。
「レイさん」
ザマーが書きつけを畳んだ。
「この話、あなた一人では決められないでしょう。……ならば」
ザマーはうっすらと笑った。
「決められる方に、会いに行きませんか」
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