第214話 現地の目利き
次の朝、ハイデの宿の前に人が集まった。
七人だった。
ヨナと、その仲間の子どもが三人。革屋の息子。豆を売る老人。それから腕組みをした油売り。……街じゅうに声をかけて、七人。
ハイデが渋い顔をした。
「タダで教えてやるって言ったんだよ。それでこれさ」
「多いほうだと思います」
俺は正直にそう言った。
この街で、見ず知らずの男がタダで何かを教えると言えば、まず裏を疑う。それが当たり前だ。二十年、だまされ続けてきた街だから。七人も来たなら上等だと思う。
「で、何を教えてくれるんだ」
油売りが言った。俺が水で割った油を看破した相手だ。あれ以来、割らずに売っている。売れているらしい。
「薬を」
俺は言った。
その一言で、場の空気が少し変わった。
◇
俺は宿の卓に二つの包みを並べた。
右は、この街の薬売りが売っている熱冷ましの粉薬。ハイデに買ってきてもらったものだ。左は、ヴィオラさんの荷から分けてもらった連合の薬種。
右の粉を、俺は視た。
……薬ではなかった。
きめの細かい赤土だ。赤い草の汁で染めて、それらしい色をつけてある。飲んでも害はない。だが効きもしない。子の熱には何ひとつ。
道中の宿場で見たのと同じ品だった。この土地では、どこへ行っても同じものが売られている。
「……ダメですね、これ」
俺は言った。
「土です。薬じゃありません」
誰も驚かなかった。
それがこの街だった。土だと知っていて買う。他にすがるものがないから。
「知ってるよ」
豆の老人が言った。
「知ってて、それしかないんだ。婆さんの熱にも、それを飲ませた。効かなかった。……分かってたさ」
その声には怒りがなかった。とうに諦めた者の声だ。
だから、と俺は思う。だから教えるのだ。
「この二つを、並べます」
俺は左の包みも開いた。連合の薬草。乾いて青みの残った葉。
「まず、匂いです」
俺は二つを回した。七人が順に鼻を近づけた。
連合の薬草は青くて苦い匂いがする。土の粉は何の匂いもしない。染めた草の汁の、かすかな甘さがあるだけだ。
「次に、水です」
俺は椀を二つ置いた。
土の粉を落とすと、しばらく濁ってから底に沈んだ。ざらりとした赤い層ができる。薬草の粉は水に散って、うっすら青緑に濁ったまま沈まない。
「沈むほうが土です。濁ったままのほうが薬草です」
「……それだけか?」
油売りが言った。
「それだけです」
「そんなことで、分かるのか」
「分かります」
俺はうなずいた。
「あとは指です。土はざらつきます。薬草の粉は繊維が指に残ります。爪でこすると分かります」
七人が順に指でこすった。誰かが「あ」と言った。
「……ほんとだ。ざらつく。こっちは、なんか、粉っぽくて、ひっかかる」
「それです」
俺は言った。
「それが分かれば、もう、あなたはだまされません」
教えるのは視るよりずっと難しい。
連合で覚えたことだ。自分の指がどこを見ているのか。それを言葉にほどいて並べ直す。長いあいだ体が勝手にやってきたことを、一つずつ言葉にする。……そのたびに、俺は自分の視方を確かめ直すことになる。
この街では、もっと難しかった。
みんな字が読めなかった。
しるしの帳面を開いて見せても、七人のうち字が読めたのは革屋の息子だけだった。連合では、まず帳面に書いた。書いたものを配れば広がった。……この街では紙が意味を持たない。
だから俺は、帳面の後ろの白紙に絵を描いた。
椀の絵。沈んだ粉の絵。沈まない粉の絵。二本の指と、ざらつきの線。……下手な絵だ。それでも七人はそれを覗きこんだ。ヨナが指でなぞった。
「これ、おれでも分かる」
ヨナが言った。
「うん」
「……なあ、旦那。おれ、字、覚えたい」
ヨナが小さな声で言った。
「字が読めたら、もっと、いろんなことが分かる? 帳面に書いてあること、ぜんぶ」
俺は少し胸を突かれた。
この子は親をだまされて亡くしている。この街の、だます土壌がそのまま産んだ子だ。その子が今、字を覚えたいと言っている。だまされないために。
「分かります」
俺は言った。
「教えます。俺の字は下手ですけど」
ハイデが板場から出てきた。手を布で拭きながら、ぶっきらぼうに卓の前に立つ。
「……あたしにも教えな」
「え」
「二十年、この街で正直を張ってきたんだ。それが、薬の見分けもつかないんじゃ、しめしがつかないだろ」
ハイデは椀に指を突っこんで、赤い土をこすった。それから鼻を鳴らした。
「……ざらついてるね。ちくしょう。客が熱を出すたび、これを飲ませるかどうかで悩んでたのが馬鹿みたいだよ」
◇
三日で、街の薬売りが土の粉を引っこめた。
誰も買わなくなったからだ。
客が水を持ってきて、その場で溶かして見せるようになった。沈む粉は買われない。薬売りは怒った。それから、しぶしぶ、まっとうな薬種を仕入れはじめた。ヴィオラさんの帆から。……値は上がった。だが効いた。
その薬売りが俺のところへ怒鳴りこんできた。商売の邪魔をするな、と。
俺は困った。
「邪魔をしたつもりはありません。……土を薬だと言って売っていたのを、土だと言っただけです」
「それが邪魔だってんだよ!」
「でも、まっとうな薬を置いてから、前より売れていますよね」
薬売りが黙った。
実際そうだった。効く薬は、また買いに来てもらえる。効かない薬は一度きりだ。飲んだ客は二度と戻らない。……当たり前のことだと思うのだが、この街ではそれが当たり前ではなかったらしい。
薬売りは何か言いかけて、口を開けたまま、しばらく突っ立っていた。それから舌打ちをして帰っていった。次の日、その店の棚には連合の薬草がもう一種類増えていた。
「……信じられないよ」
ハイデが辻を見ながら言った。
「あんた、この街に来て、まだ、ひと月ちょっとだろ」
「みんなが自分で見分けただけです」
「そういうことを言ってるんじゃないよ」
ハイデは呆れた顔をした。
俺には、その呆れ顔の意味がよく分からなかった。
……ただ、一つだけ、分かったことがある。
俺の目は一つだ。この街のぜんぶは視られない。明日、俺はここにいないかもしれない。……だが指は違う。匂いも、椀の水も、違う。それは七人のものになった。七人が、また誰かに教える。
一人の目は、街を守れない。
百の指なら、守れる。
連合の検め場でやったことと同じだった。ドニさんがいて、ルカがいて、主任さんがいて、若い目利きの子がいた。俺がいなくても回る仕組み。……ミレイユさんの文にあった通りだ。あなたがいなくてもグラナは回る、と。
この街にも、それを。
そう思ったときだった。
辻のほうがざわめいた。
馬車の音。人の避ける気配。……俺は顔を上げた。
街の門を、荷馬車の列がくぐってきていた。
金の輪。輪の中の、山。
その列の先頭で、痩せて背の高い男が、静かにこちらを見ていた。
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