第213話 遠い改革
文は二通あった。
一通は連合の組合本部から。もう一通はグラナから。……ヴィオラさんの帆は俺が思っているよりずっと遠くまで届いているらしい。連合の外れの、そのまた外れ。保証も組合もないこの門の街まで、紙が追いかけてくる。
俺は蝋燭のそばで本部の封を開けた。
封蝋に組合の印が押されている。
……俺はその蝋をつい視てしまった。
連合の紙だ。目の細かい丈夫な紙。蝋は上等な蜜蝋。印はまっすぐ押されていない。少し傾いて端のほうが薄くなっている。急いで押したのだろう。……たぶんテオさんだ。あの人はいつも駆け足だから。
俺は少し笑ってしまった。
封蝋一つで遠い街の慌ただしさが見える。こういうのは癖なのだと思う。視るなと言われても勝手に見えてしまう。
文はセレネさんとテオさんの連名だった。
『レイへ。
連合評議会が決めました。
しるしの帳面を連合の外へ。あなたが持っていった写しに本部の後ろ盾をつけます。この文と一緒に正式に刷ったものを送ります。連合の印つきの帳面です。
これはただの紙です。連合の外ではなんの力もありません。誰もこの印を知らないし、この印に従う義理もない。……それでも送ります。
あなたが向こうで書きつけた名前を、こちらで刷ります。刷ったものをまた向こうへ送ります。連合の目利きと新天地の目利きが同じ帳面を見る。……それだけのことです。
その、それだけのことが、たぶんいちばん遠くまで行きます。
セレネ』
その下にテオさんの字が続いていた。少し乱暴で勢いのある字だ。
『レイさん。評議会は荒れましたよ。連合の外の話まで面倒を見る筋合いはない、と。まあ通しました。細かいことは帰ってきたら聞いてください。
こっちは回ってます。あなたがいなくてもちゃんと。……それが少し悔しいくらいに。
テオ』
俺は文を膝に置いた。
胸のあたりがあたたかくなった。
あの評議会だ。徽章がすべてだった、あの場所。俺の目をまやかしと呼んだ人たちが座っていた、あの場所。そこで連合の外の無法の街のために紙を刷ることが決まった。
人は変わる。街も変わる。組合も変わる。……遠くにいてもそれが届いてくる。
◇
同じ頃、メルダート。
組合本部の一室で、セレネは刷り上がったばかりの帳面を積んでいた。
紙の匂いがした。まだインクの乾ききらない新しい帳面だ。連合じゅうの支部に配るもの。そして連合の外へ送るもの。
「刷り上がりましたよ」
テオが束を抱えて入ってきた。まくった腕にインクの染みがついている。銅の徽章が胸で揺れていた。金でも銀でもない。本部の中枢に立つには軽すぎる徽章だ。それでもテオはそれを外さない。
「評議会、荒れましたね」
「ええ」
セレネは短く答えた。
荒れた、どころではなかった。連合の外の土地になぜ組合が紙を送るのか。あの土地に組合の権威は及ばない。及ばないところに印を出せば印が軽くなる。──そういう理屈だった。理屈としては正しい。
その理屈を、セレネは正面から崩さなかった。崩さずにこう言った。
──あの人の目はもう、あの人だけのものではありません。
連合じゅうの目利きがレイの視方を少しずつ受け継いでいる。その目が今、連合の外にいる。外にいる目が視たものを、こちらが受け取らない理由がどこにあるのか。
ベッケンが最初にうなずいた。ザネッティが続いた。そして退いた身のはずの父が、傍聴席の端から一言だけ言った。
──印は使わなければ軽くなる。
それで決まった。
「セレネさん」
テオが束を置きながら言った。
「あなた、変わりましたよね」
「そうかしら」
「初めて会ったとき、あなたは徽章の話しかしませんでしたよ」
セレネは手を止めなかった。
「……そうね」
徽章の話しかしなかった。品の話ではなく。あの頃の自分を今のセレネはうまく思い出せない。銀の徽章を胸に、まっとうな品ではなく、まっとうに見える品を数えていた自分を。
窓の外はもう暗い。
この本部にレイはいない。連合にもいない。ずっと遠い、保証も組合もない土地にいる。セレネはそこへ行かなかった。行けなかったのではない。行かないことを選んだ。
改革はまだ始まったばかりだ。ここを離れればこの紙は刷られない。刷られない紙はあの人のところへ届かない。
だからここにいる。
「……届くといいですね」
テオが言った。
「届くわ」
セレネは刷り上がった帳面を一冊、手に取った。表紙にはまだ誰の名前も書かれていない。連合の外の、まっとうな職人の名前が、いつかここに並ぶ。
「あの人は放っておけない人だから」
◇
朝。
ヴィオラさんの荷から、俺は本部の帳面の束を受け取った。
連合の印の押された新しい帳面。それをハイデに見せた。
ハイデはしばらく黙って見ていた。ぶ厚い指で表紙をなでる。
「……紙、だね」
「はい」
「こんな紙切れ一枚が、あんな遠い連合から、この吹きだまりまで来たのかい」
ハイデは鼻を鳴らした。だがその手つきはひどく丁寧だった。
「……この街じゃ紙なんざ値打ちがないよ。誰も字を読まない。読めても書いてあることを信じない。この街の連中は紙に書いてあることを信じて、二十年、身ぐるみはがされてきたんだ」
その通りだ、と俺は思った。
この街には証文があふれている。だが証文はだますための道具だった。書いてある言葉と実際の品がいつも違う。だから誰も紙を信じない。
この帳面もこの街ではただの紙だ。
「だけどね」
ハイデが言った。
「あんたが書いた名前が、ここに載るんだろ。あの革屋の名前が」
「はい。載ります」
「……連合の、遠い街の人間が、この街の革屋の名前を知るのかい」
「知ります」
ハイデはしばらく黙っていた。
それから湯気の立つ鍋のほうへ、ぶっきらぼうに背を向けた。
「……ふん。物好きな連中もいたもんだ」
だがその背中はいつもより少しだけまっすぐだった。
横からフィオナさんが帳面をのぞきこんできた。
「なんだ。また手紙か」
「はい。セレネさんとテオさんからです」
「ふうん」
フィオナさんはまた少しむくれた顔をした。
「……あたしは手紙なんか書かないぞ」
「ええ。フィオナさんはここにいますから」
フィオナさんの動きが止まった。
「……お、おう。そうだ。あたしは、ここにいるからな」
そう言って、なぜか耳まで赤くして槍の手入れをはじめた。
よく分からない人だ。でもたしかにその通りだ。フィオナさんはずっと俺のそばにいる。手紙が要らないくらい、いつも。……ありがたいことだと思う。
俺は帳面の束を見た。
連合の印つきの帳面が、俺の手元に何十冊も。
……そこで、ふと気づいた。
この帳面は俺一人では回らない。連合には検め場があった。主任さんがいて、若い目利きの子がいた。三人で一つの流れを作っていた。……この街には俺しかいない。
俺の目は一つだ。街は大きい。辻の秤は一つしかない。
俺は板場のほうを見た。ヨナが卵を振って、古いか新しいかを他の子に教えている。
「ハイデさん」
俺は言った。
「明日から、少し教えてもいいですか。……見分けかたを。街の人に」
ハイデが振り返った。
その顔に、俺の見たことのない表情が浮かんでいた。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




