第211話 盟の代理人
その男は次の日、宿にやってきた。
昨日、辻を遠くから見ていた、身なりのいい男だった。ハイデの宿の戸を静かに叩く。物腰はやわらかい。だが目だけは笑っていなかった。
歳のころは四十半ばか。痩せて背が高い。指が長く白かった。荷を担いだこともなければ、剣を握ったこともない手だ。帳面とそろばん。人の値踏み。……そういうもので生きてきた手だった。
「失礼。……こちらに、品の真贋を視るという方がいると聞いて」
男は丁寧に言った。
俺が名乗ると、男は軽く頭を下げた。
「ザマーと申します。……とある商いの盟の、名代のようなものです」
盟。──その言葉に、俺は身構えた。
金の輪の紋。あの、途方もなく大きな盟。その裾野が、この街に偽物を流している。……その盟の男が、俺を訪ねてきた。
ハイデが板場の奥でぴたりと手を止めた。その顔からいつもの皮肉が消えていた。
「ザマーさん。俺に、何か」
「いえ。ご挨拶に、と思いましてね」
ザマーは椅子に腰かけた。無駄のない、静かな動きだった。
「近ごろ、この街で面白い噂を聞くのですよ。辻に正直な秤があると。品の真贋をひと目で見抜く男がいると。……この、だましあいで回っている街で、ね。珍しいことです」
ザマーの目が俺を値踏みするように見た。
……この男はただ者じゃない。俺はそう感じた。用心棒くずれのような粗い威圧はない。だがもっと静かで、もっと底の知れない何かがあった。
「一つ、視ていただけますか」
ザマーは懐から小さな包みを取り出した。布を開くと、中からガラスの杯が出てきた。
薄い。透き通っている。淡い青の色が底のほうに沈んでいる。……美しい杯だった。
俺はそれを視た。
……本物だった。
「……これは、すごい品です」
俺は正直に言った。
「ガラスに混ぜ物がありません。厚みも均一です。この薄さで、ゆがみもない。……これを作るのは、たいへんな腕です。まっとうな、本物の品です」
こんな品を久しぶりに見た。いや──この街に来てから初めてだ。偽物ばかりのこの街で、これほどまっとうに作られた品を俺はまだ一度も視ていなかった。手にした指に作り手の丁寧さが伝わってくるようだった。
ザマーがうっすらと笑った。
「そのとおり。……我らの盟が作ったものです」
俺は少し驚いた。
この街に流れてくる盟の品はみんな偽物だった。薄くすいた革。水で割った油。磨いた鉛の銀細工。……だがこの杯は違った。まっとうな、本物の品だ。
「意外、という顔ですね」
ザマーが言った。
「盟は偽物ばかり流していると? ……いいえ。我らは本物も作ります。それも、誰にも真似のできない、最上の本物を。この杯のような品を、いくらでも」
ザマーは杯を布に包み直した。
「盟主、ヴァルダー様の言葉があります。──安いものは安いなりに、高いものは高いなりに、いちばん多くの客に、いちばん多く売れ、と。安い偽物も、最上の本物も、どちらも盟の商いなのです。……効率よく、大きく。それが我らのやり方でしてね」
ヴァルダー。──その名が部屋の空気を少し重くした。
まだ会ってもいない、途方もなく大きな相手。その名をザマーはうやうやしく口にした。
効率よく、大きく。──その言葉には迷いがなかった。悪びれる様子もうしろめたさもない。ザマーはそれを当たり前の正しさとして口にしていた。……この人たちは、偽物を流すことを、悪いことだと思っていない。安く売れるものを安く売る。それだけのことだと思っている。だからこそ、たちが悪いのだ、と俺は思った。
「レイさん、と言いましたね」
ザマーが続けた。
「あなたの目は大した目だ。……正直に申しましょう。あなたのような目を持つ者は、盟でもそう多くない。品の真贋を、ひと目で。そういう目は、こんな辺境の辻で安い麦を量っているには、惜しい」
……惜しい?
「もっと、ふさわしい場所があります」
ザマーは静かに言った。
「あなたの目があれば、盟はもっと大きな商いができる。あなたも、こんな泥の街で汗をかくより、ずっと楽に、ずっと豊かに暮らせる。……悪い話では、ないでしょう」
俺は少し考えた。
この人が何を言っているのか、俺には、いまひとつ分からなかった。
「俺は」
俺は言った。
「ただ、品を視て、そのとおりに言うだけです。ここでも盟でも、やることは同じです。それに……俺の目は、正直な品を正直だと言うための目です。偽物を上手に売るための目じゃ、ありません」
ザマーの笑みが、ほんの少しだけ動いた。
俺は、何かまずいことを言っただろうか、と思った。
「……面白い方だ」
ザマーは立ち上がった。
「今日は、ご挨拶まで。……レイさん。一つだけ覚えておいてください。この街の偽物も、辻の正直な秤も、……どちらも、いずれ、盟の商いに関わってくる。あなたがどちらの側に立つかは、いずれ決めることになりますよ」
ザマーは丁寧に頭を下げ、宿を出ていった。
静かな、物腰のやわらかい男だった。だがその背中が消えたあと、板場には冷たいものが残っていた。
ハイデはしばらく黙って板場の火を見ていた。
「……あいつらだよ」
ハイデが低い声で言った。
「うちの亭主を飲みこんで、吐き捨てた、あの盟さ。あのザマーって男もね。昔、うちの亭主のところに来た男と、そっくりだよ。にこにこ笑って、丁寧で、そろばんみたいに冷たい。……ああやってまっとうな商人に近づいて、じわじわと飲みこんでいくのさ。気をつけな、小僧。あいつらは粗いことはしない。だが、いちばん、たちが悪い」
俺はザマーの消えた戸口を見ていた。
あのガラスの杯を思い出した。まっとうな、本物の品。あんな美しいものを作れる盟が、その一方で、安い偽物で、まっとうな職人を根こそぎ潰していく。ハイデの亭主のように。
本物も偽物も、同じ手で作る。効率よく、大きく。……その大きさの前では、俺の辻の秤など砂粒のようなものだった。
だが──と、俺は思った。
あの杯は、確かに本物だった。それなら、あの盟のいちばん奥には、本物を作れる者がいるはずだ。本物の値打ちを知っている者が。……いつか、その相手と向き合うことになるのかもしれない。
その予感は次の日、思いがけない形で動きはじめた。
連合のほうからヴィオラの帆が戻ってきたのだ。
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