第210話 秩序の芽
辻の秤のまわりが変わりはじめていた。
朝、俺が辻に出ると、もう何人かが列を作っていた。まっとうに量ってほしい者たちだ。ひと月前には考えられなかった光景だった。この街の者は目方のごまかしを、あきらめて受け入れていたのだから。
一人の女房が麦を量りに来た。買ったばかりの麦だという。
「なんだか、目方が足りない気がして」
女房は言った。
「前はこんなこと気にもしなかったんだけどねえ。……辻の秤で量れば、はっきりするって聞いたから」
量ってみると案の定、目方が足りなかった。二割ほど。女房はぷんぷんしながら麦屋へ文句を言いに戻っていった。
……ひと月前なら、この女房は二割少ない麦をそのまま受け取っていただろう。だまされていることにすら気づかずに。
その朝も、ひと悶着あった。
干し肉を売る男が、切り口だけ新しい肉を並べていた。奥は古い。よくある手だ。だが客が肉を裏返すより早く、ヨナのそばにいた小さな女の子が鼻をひくつかせた。
「おじさんのお肉、奥がくさいよ」
男はぎょっとして、そそくさと荷をまとめた。まわりの客がどっと笑う。
……子どもの鼻ひとつで、だませなくなる。この街でそんなことは、ついぞなかった。
少し離れたところで、ヨナが別の客の卵を見ていた。
「これ、古いよ。ほら、振ると音がする。……こっちの新しいのにしなよ」
ヨナが得意げに客に教えている。もう俺が教えなくても、ヨナは自分で見分けていた。それどころか、ほかの客にも教えている。
ヨナのまわりには、いつのまにか数人の子どもが集まっていた。卵を振ったり、麦をより分けたり、秤の狂いを確かめたり。……見分けの手が、子どもから子どもへ移っていく。俺が一人で視るより、ずっと早く街に広がっていた。
「たいしたもんだよ、小僧」
ハイデが宿の軒先で腕を組んで言った。
「二十年、変わらなかった街だよ。あきらめて、だまされて、それが当たり前だった街さ。……それがひと月で、これだ。あんたが来てから街の風向きが変わった」
「俺は何もしてません」
俺は言った。
「ただ品を視て、そのとおりに言っただけです。あとは見分けの手を少し教えただけで。……みんなが自分で気づいたことです。もともと、みんな、だまされたくはなかったんです。ただ確かめるすべがなかっただけで」
ハイデが、ふん、と鼻を鳴らした。
「……そのすべを、あんたが持ちこんだんだろうが」
「俺じゃなくても、誰かが……」
「その誰かが、二十年、来なかったんだよ」
ハイデはあきれたように言った。
俺には、ハイデが何にあきれているのか、よく分からなかった。
俺はただの検品係だ。グラナに来るまでは商会の下働きだった。品を視て悪いものを弾く。それだけの地味な仕事。誰にほめられることもなかった。むしろ出荷の邪魔だと追い出された。……その同じ目で、同じことをしているだけなのに。ここではみんなが、俺を拝むみたいな目で見る。土地が変われば、同じ目がこうも違って見えるのか。俺には、どうにも不思議だった。
◇
辻の秤が根づくにつれて、まっとうな商人が少しずつ息を吹き返していた。
あの革職人も、その一人だった。
しるしの帳面に名を書いた、まっとうな革をなめす老人。その革が少しずつ売れはじめていた。「辻の秤の帳面に載ってる職人だ」というのが、いつのまにか信用の証になっていた。
老職人が辻まで礼に来た。
「あんたのおかげだ」
老職人は言った。
「この歳になって、また、まっとうな革が売れるとは思わなかった。……息子に店を継がせようと思う。まっとうな革をなめす店を。もう、たたむのはやめだ」
……俺は、その言葉がうれしかった。
あの豆を売る貧しい老人も、また辻に来ていた。初めて正直な秤で豆を量ってもらい、涙を流した老人だ。その豆がまっとうな値で売れるようになったという。老人は俺を見ると、しわだらけの顔で深く頭を下げた。何も言わず、ただ何度も。
まっとうな仕事が、また報われはじめている。半年でひび割れる偽物より、十年もつ本物を人が選びはじめている。……それは小さな、けれど確かな変化だった。
ハイデの宿にも客が増えていた。正直な秤があるというので、まっとうな商人が寄るようになったのだ。二十年、意地だけで守ってきた秤が、ようやく宿を潤しはじめている。ハイデは口ではたいした稼ぎじゃないとぼやいた。だがその手は、来た客の椀に少しだけ多く汁を盛っていた。
だます側は面食らっていた。
いつもの手が通じなくなっていた。上げ底の桝も、水増しの油も、暴かれる。だまそうとすると客が辻の秤で確かめる。……だます土壌が、少しずつ痩せはじめていた。
ある油売りが俺のところへ来てぼやいた。
「あんたのせいで、商売あがったりだ。……水で割った油が、まるで売れねえ」
「水で割らずに売れば、売れますよ」
俺は言った。
油売りはしばらく、ぽかんと俺を見ていた。それから何か言いかけて、やめて、頭をかいて、去っていった。
……変なことを言っただろうか、と俺は思った。水で割った油が売れないなら、割らずに売ればいい。当たり前のことだと思ったのだが。
だが、街の空気は確かに変わりつつあった。
だまされるのが当たり前だった街で、人がだまされまいとしはじめている。あきらめていた者が顔を上げはじめている。……たった一つの正直な秤から、それが広がっていた。
もちろん、まだ、ほんの一角の話だ。この街は広い。裏通りには相変わらず、だましあいがはびこっている。用心棒くずれも偽物の店も、まだいくらでもある。……だが辻の秤のまわりにだけは、確かに正直が根を張りはじめていた。
小さな、小さな芽だった。
だが、その芽を面白く思わない者がいた。
変わりはじめた辻を、遠くからじっと見ている男がいたのだ。
身なりのいい男だった。この街のだらけた用心棒くずれとは違う。仕立てのいい服。無駄のない身のこなし。……あの金の輪の紋の倉に出入りする人足たちと、どこか同じ匂いがした。
男は辻の秤と、俺のことを、しばらく見ていた。品定めでもするように。それから何も言わず、人ごみに消えた。
誰だ、あれは。
俺がハイデに聞くと、ハイデも見たことのない男だという。この街の顔役でもない。用心棒くずれでもない。……もっと遠くから来た、別の匂いのする男だった。
あの大きな流れが、こちらに気づきはじめている。
その予感が、はっきりとあった。
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