表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
21/256

第21話 査察の報告

 セレネは、宿を発たなかった。


 縄の一件から三日が過ぎても、彼女はグラナに留まっていた。


 報告は、まだ書いていない。


 机の上には白い紙が一枚。隣には組合の査察の控えが積んである。書くべきことは決まっているはずだった。


『無資格の者が銭を取り鑑定を僭称しおり候』


 そう書けばいい。ゲルツの通報状の文言をそのまま写せばいい。それで査察は終わる。あの男は街から鑑定の看板を下ろす。組合の格は守られる。


 筆を執る。


 だが書けなかった。


 書けば嘘になる。


 あの男の目は本物だった。縄の中の一本の糸まで視た。組合の徽章を九年かけて取った自分がたどり着けなかった場所に、あの男は立っていた。


 それを「僭称」と書くのは、品物に嘘を載せるのと同じことだ。


 セレネは筆を置いた。


 ◇


 翌朝、セレネはまた、目利き相談の隣に座った。


 査察のためではなかった。自分でもなぜ座るのか分からなかった。


 相談客が、次々に品を持ち込む。レイはそれを視て、淡々と答える。


「この壺、水漏れします。底のひびが内側に走っています」


「この布、染めが浅いです。三度洗えば色が抜けます」


「この蜂蜜、本物です。混ぜ物はありません。良い品です」


 セレネは、その一つ一つを、自分の徽章でも検めた。


 全部、合っていた。


 外れは、一つもなかった。


 昼を過ぎた頃、小さな女の子が欠けた人形を抱えて列に並んだ。


「これ、なおせる?」


「俺は直せません。ですが」


 レイは人形を視た。


「木の地はまだ生きています。腕の継ぎが外れただけです。膠で留めればまた動きます。──西通りの、バラ婆さんの隣の指物師に頼むといいです」


「お金、かかる?」


「銅貨二、三枚だと思います。この相談は、いりません。仕舞っておきなさい」


 レイは銅貨五枚を受け取らなかった。


 女の子は人形を抱えて、嬉しそうに駆けていった。


 セレネは、それを見ていた。


 あの男は銭のために視ているのではない。視えるから視ている。困っている者がいるから答えている。それだけだ。


 「僭称」という言葉が、どんどん遠くなっていく。


 ◇


「ひとつ、聞いてもいいですか」


 相談の途切れた合間に、セレネが口を開いた。


「はい」


「あなたは、なぜ徽章を取らないのです。これだけの目があれば、組合の試験など造作もないでしょう」


 レイは、少し考えた。


「考えたことが、ありませんでした」


「考えたことが、ない?」


「俺はただの検品係でした。誰でもできる仕事だとずっと思っていたので。徽章のような立派なものは、自分には縁のないものだと」


「……誰でもできる」


 セレネは、低くつぶやいた。


「あなたのやっていることは誰にもできません。私にもできない。それを本気で『誰でもできる』と思っているのですか」


「みんな、できると思っていました」


 レイは、不思議そうな顔をした。


「縄の中の一本くらい、よく見れば誰でも──と。でも、この街に来て、少しずつ分かってきました。どうやら、そうではないらしいと」


 セレネは、言葉を失った。


 この男は嘘をついていない。本気で自分を凡庸だと思っている。だからこそ、その目は澄んでいる。誇りも見栄も、何も混じっていない。


 ただ品物を視ている。


 それが組合のどんな鑑定士より、まっすぐだった。


 ◇


 その夜。セレネは、ついに報告を書いた。


 筆は、迷わなかった。


『査察の儀、相済み候。

 当人レイなる者、組合の資格を騙りし事実なし。「鑑定役」はギルド内の役職名にして、鑑定士の僭称にあらず。

 その目利きの精度、組合の鑑定に勝るとも劣らず。むしろ──』


 そこで、筆が止まった。


 「むしろ、上回る」と書けば、それは組合の格を傷つける。名家の娘として、書いてはならない一行だ。


 だが、セレネは書いた。


『むしろ、これを下す鑑定士を、私は組合に知らず。

 銭を取ることの是非は別途議すべきも、当人の目を「偽物」と断ずるは、鑑定の名に背く所業と存じ候』


 書き終えて、セレネは長く息を吐いた。


 これは自分の負けを認める報告だ。組合の権威を地方の無資格者の下に置く報告だ。父が読めば激怒するだろう。


 それでも嘘よりはましだった。


 品物に嘘を載せない。それが鑑定士の一番の矜持なのだと、九年かけて学んだはずだった。


 皮肉なことに、それを思い出させたのは、徽章もないあの目利きの男だった。


 ◇


 数日後、メルダート。


 組合の支部長は、セレネの報告書を読んで、目を丸くした。


「『組合の鑑定に勝るとも劣らず』……セレネ嬢が、地方の目利きを、ここまで」


 報告は通報の握り潰しではない。むしろ逆だ。組合の査察役が公式に、レイの目を「本物」と認めた文書だった。


 通報したゲルツの思惑は、完全に裏目に出た。


 組合の犬を噛みつかせるはずが、その犬が相手の手柄を保証する書状に化けた。


 ◇


 グラナの宿で、ゲルツがその報せを聞いたのは、さらに数日後のことだった。


「査察役が、あの倉庫番を、本物と、認めた……?」


 ゲルツは、しばらく動けなかった。


 安売りは損を重ねている。東の山は空振りだった。組合の査察は裏目に出た。


 打つ手が、ことごとく裏返っていく。


 倉庫番は何もしていない。ただ品物を視て、聞かれたことに答えているだけだ。なのに、こちらの企てだけが勝手に転んでいく。


「……なぜだ」


 ゲルツは、机を強く叩いた。


 その問いに答える者は、誰もいなかった。


 膝の上の帳面を、ゲルツはそっと閉じた。特設市の損は会頭に通してある。痛いが、勝負の費えだ。


 問題は別にあった。東の山の調査隊。四十枚の費え。あれだけは会頭に載せていない。


 稼ぎ場を一人で押さえて手柄にする。そのつもりで、無断で先走った金だ。成果が出れば穴は埋まる。出る前に表に出れば、ただの背任になる。


 ゲルツの焦りは損の額より、その一点にあった。早く、何か一つでいい。会頭に誇れる成果が要る。沢だ。沢さえ押さえれば。


 だがその沢が、どこにあるのかすら、まだ掴めていなかった。


 ◇


 グラナ。発つ前の朝、セレネはギルドに立ち寄った。


「報告は、出しました。あなたを『本物』と書いて」


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋ではありません。──ただの、事実です」


 セレネは、背を向けかけて、足を止めた。


「レイ。私は、また来ます。今度は、査察ではなく」


「査察ではなく?」


「あなたの目が、どこまで視えるのか。それをこの目で確かめに。──負けたままでは終われないので」


 セレネはそれだけ言って、馬車に乗り込んだ。


 その頬が、ほんの少し赤かった気がする。


 だが、それが何を意味するのか、俺にはやはり分からなかった。

面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ