第21話 査察の報告
セレネは、宿を発たなかった。
縄の一件から三日が過ぎても、彼女はグラナに留まっていた。
報告は、まだ書いていない。
机の上には白い紙が一枚。隣には組合の査察の控えが積んである。書くべきことは決まっているはずだった。
『無資格の者が銭を取り鑑定を僭称しおり候』
そう書けばいい。ゲルツの通報状の文言をそのまま写せばいい。それで査察は終わる。あの男は街から鑑定の看板を下ろす。組合の格は守られる。
筆を執る。
だが書けなかった。
書けば嘘になる。
あの男の目は本物だった。縄の中の一本の糸まで視た。組合の徽章を九年かけて取った自分がたどり着けなかった場所に、あの男は立っていた。
それを「僭称」と書くのは、品物に嘘を載せるのと同じことだ。
セレネは筆を置いた。
◇
翌朝、セレネはまた、目利き相談の隣に座った。
査察のためではなかった。自分でもなぜ座るのか分からなかった。
相談客が、次々に品を持ち込む。レイはそれを視て、淡々と答える。
「この壺、水漏れします。底のひびが内側に走っています」
「この布、染めが浅いです。三度洗えば色が抜けます」
「この蜂蜜、本物です。混ぜ物はありません。良い品です」
セレネは、その一つ一つを、自分の徽章でも検めた。
全部、合っていた。
外れは、一つもなかった。
昼を過ぎた頃、小さな女の子が欠けた人形を抱えて列に並んだ。
「これ、なおせる?」
「俺は直せません。ですが」
レイは人形を視た。
「木の地はまだ生きています。腕の継ぎが外れただけです。膠で留めればまた動きます。──西通りの、バラ婆さんの隣の指物師に頼むといいです」
「お金、かかる?」
「銅貨二、三枚だと思います。この相談は、いりません。仕舞っておきなさい」
レイは銅貨五枚を受け取らなかった。
女の子は人形を抱えて、嬉しそうに駆けていった。
セレネは、それを見ていた。
あの男は銭のために視ているのではない。視えるから視ている。困っている者がいるから答えている。それだけだ。
「僭称」という言葉が、どんどん遠くなっていく。
◇
「ひとつ、聞いてもいいですか」
相談の途切れた合間に、セレネが口を開いた。
「はい」
「あなたは、なぜ徽章を取らないのです。これだけの目があれば、組合の試験など造作もないでしょう」
レイは、少し考えた。
「考えたことが、ありませんでした」
「考えたことが、ない?」
「俺はただの検品係でした。誰でもできる仕事だとずっと思っていたので。徽章のような立派なものは、自分には縁のないものだと」
「……誰でもできる」
セレネは、低くつぶやいた。
「あなたのやっていることは誰にもできません。私にもできない。それを本気で『誰でもできる』と思っているのですか」
「みんな、できると思っていました」
レイは、不思議そうな顔をした。
「縄の中の一本くらい、よく見れば誰でも──と。でも、この街に来て、少しずつ分かってきました。どうやら、そうではないらしいと」
セレネは、言葉を失った。
この男は嘘をついていない。本気で自分を凡庸だと思っている。だからこそ、その目は澄んでいる。誇りも見栄も、何も混じっていない。
ただ品物を視ている。
それが組合のどんな鑑定士より、まっすぐだった。
◇
その夜。セレネは、ついに報告を書いた。
筆は、迷わなかった。
『査察の儀、相済み候。
当人レイなる者、組合の資格を騙りし事実なし。「鑑定役」はギルド内の役職名にして、鑑定士の僭称にあらず。
その目利きの精度、組合の鑑定に勝るとも劣らず。むしろ──』
そこで、筆が止まった。
「むしろ、上回る」と書けば、それは組合の格を傷つける。名家の娘として、書いてはならない一行だ。
だが、セレネは書いた。
『むしろ、これを下す鑑定士を、私は組合に知らず。
銭を取ることの是非は別途議すべきも、当人の目を「偽物」と断ずるは、鑑定の名に背く所業と存じ候』
書き終えて、セレネは長く息を吐いた。
これは自分の負けを認める報告だ。組合の権威を地方の無資格者の下に置く報告だ。父が読めば激怒するだろう。
それでも嘘よりはましだった。
品物に嘘を載せない。それが鑑定士の一番の矜持なのだと、九年かけて学んだはずだった。
皮肉なことに、それを思い出させたのは、徽章もないあの目利きの男だった。
◇
数日後、メルダート。
組合の支部長は、セレネの報告書を読んで、目を丸くした。
「『組合の鑑定に勝るとも劣らず』……セレネ嬢が、地方の目利きを、ここまで」
報告は通報の握り潰しではない。むしろ逆だ。組合の査察役が公式に、レイの目を「本物」と認めた文書だった。
通報したゲルツの思惑は、完全に裏目に出た。
組合の犬を噛みつかせるはずが、その犬が相手の手柄を保証する書状に化けた。
◇
グラナの宿で、ゲルツがその報せを聞いたのは、さらに数日後のことだった。
「査察役が、あの倉庫番を、本物と、認めた……?」
ゲルツは、しばらく動けなかった。
安売りは損を重ねている。東の山は空振りだった。組合の査察は裏目に出た。
打つ手が、ことごとく裏返っていく。
倉庫番は何もしていない。ただ品物を視て、聞かれたことに答えているだけだ。なのに、こちらの企てだけが勝手に転んでいく。
「……なぜだ」
ゲルツは、机を強く叩いた。
その問いに答える者は、誰もいなかった。
膝の上の帳面を、ゲルツはそっと閉じた。特設市の損は会頭に通してある。痛いが、勝負の費えだ。
問題は別にあった。東の山の調査隊。四十枚の費え。あれだけは会頭に載せていない。
稼ぎ場を一人で押さえて手柄にする。そのつもりで、無断で先走った金だ。成果が出れば穴は埋まる。出る前に表に出れば、ただの背任になる。
ゲルツの焦りは損の額より、その一点にあった。早く、何か一つでいい。会頭に誇れる成果が要る。沢だ。沢さえ押さえれば。
だがその沢が、どこにあるのかすら、まだ掴めていなかった。
◇
グラナ。発つ前の朝、セレネはギルドに立ち寄った。
「報告は、出しました。あなたを『本物』と書いて」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋ではありません。──ただの、事実です」
セレネは、背を向けかけて、足を止めた。
「レイ。私は、また来ます。今度は、査察ではなく」
「査察ではなく?」
「あなたの目が、どこまで視えるのか。それをこの目で確かめに。──負けたままでは終われないので」
セレネはそれだけ言って、馬車に乗り込んだ。
その頬が、ほんの少し赤かった気がする。
だが、それが何を意味するのか、俺にはやはり分からなかった。
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