第207話 ハイデの過去
その夜、俺はハイデに聞いてみた。
昼間、辻の子どもたちを見たとき、ハイデが見せた遠い目のことを。
「ハイデ。昼間の『昔と同じ』って、どういう意味ですか」
ハイデはしばらく黙っていた。
宿の板場で一人、酒の杯を傾けている。俺が隣に腰かけても何も言わない。窓の外はもう暗い。辻の秤も今は闇に沈んでいる。昼間のにぎわいがうそのようだった。
やがてぽつりと口を開いた。
「……二十年前の話さ」
ハイデは杯を置いた。
「昔、この街に、まっとうな織物を商う男がいてね。……あたしの亭主さ」
意外だった。ハイデに亭主がいたなんて。
「腕のいい織物商でね。糸の良し悪しを見る目は確かだった。まっとうな糸で、まっとうに織った反物しか扱わなかった。この街でも昔は、そういう商いがちゃんと成り立ってたのさ」
ハイデの声は静かだった。
「あたしとは、その反物がきっかけで一緒になった。小娘のころ、あの人の店で、一反の反物に見とれてね。……なけなしの銭で、それを買ったんだ。あの人は笑って、まけてくれた。そういう人だったのさ。品にうそをつかない。客にもうそをつかない。……あのころのこの街は、まだ、そういう商いで回ってた」
ハイデの目が遠くなった。
「だけど、あるとき、大きな商いがこの街に入ってきた」
大きな商い。──俺は金の輪の紋を思い出した。
「そう。あんたの言う、あの盟さ。まだ今ほどでかくはなかったけどね。やつらは安い反物を山ほど持ちこんだ。うちの亭主の反物の、半値以下だ。見た目は変わらない。客はみんな、そっちを買った」
……205の革職人と同じだ、と思った。
まっとうな品が、安い偽物に値段で負ける。
「亭主の反物は、売れなくなった。まっとうにやってたら飢えるだけだ。それで亭主は、盟の下請けになった。盟の言うとおりの、安い反物を織るしかなかった」
ハイデの指が杯をきつく握った。
「まっとうな織物を誇りにしてた人がね。……盟に言われて、糸を減らし、染めをごまかし、安い反物を織らされた。だます側に回らされたのさ」
俺は黙って聞いていた。
「それでも、暮らしのためだって亭主は自分に言い聞かせてた。……でも、あるとき、盟は下請けを切り捨てた。もっと安く織れる別の土地を見つけたのさ。うちの亭主は、用済みだ」
ハイデは天井を見上げた。
「……いいかい小僧。あの盟のやり口は、いつもそうさ。まず安い品で、その土地のまっとうな商人を根こそぎ潰す。潰れた商人を、下請けに拾う。安くこき使う。……で、もっと安い土地が見つかれば、ぽいと捨てる。捨てられた者のことなんか、誰も覚えちゃいない。あいつらの帳面には、数しか載ってない。人の名前は載ってないのさ」
ハイデは杯の酒をあおった。
「まっとうな商いを捨てて、だます側に回って、それでも最後は切り捨てられた。……亭主はそれから、酒におぼれて、二年で死んださ。誇りも暮らしも、ぜんぶなくして」
板場に静けさが落ちた。
……ハイデが二十年、一人で正直な秤を守ってきた理由が分かった気がした。
「あたしはね」
ハイデが言った。
「亭主が捨てさせられた、まっとうな商いを意地で続けてきたのさ。宿の秤だけは、まっすぐに。……無駄だと思いながらね。この街は変わらない。まっとうなんて報われない。ずっと、そう思ってた。あんたが来るまでは」
ハイデは立ち上がった。
奥の部屋から古い木箱を持ってくる。ふたを開けた。中には、一反の織物が入っていた。
「これが、亭主の織った、最後のまっとうな反物さ。盟の下請けになる前の、最後の一反。……二十年、売らずに取っておいた」
俺はその反物を視た。
……本物だった。
まっとうな糸で丁寧に織ってある。染めもごまかしがない。二十年経っているのに、色あせていない。まっとうな仕事だけが持つ静かな艶があった。
「本物です」
俺は言った。
「いい糸で丁寧に織ってあります。染めも本物です。二十年経っても、これはいい反物です。……ごまかしの反物なら、とっくに色あせて、ぼろぼろになってます。でも、これは違います。ちゃんと、まっとうに作られてます」
ハイデが俺を見た。
その目から涙がこぼれた。
「……二十年だよ」
ハイデの声が震えていた。
「二十年、誰にも本物だと言ってもらえなかった。うちの亭主の、いちばんの仕事を。……あんたが、初めてさ」
ハイデは、その反物をそっと抱きしめた。その手つきは、亡くなった人の頬に触れるようだった。二十年、この一反に亭主の面影を重ねてきたのだろう。
俺は何も言えなかった。
ただ一つだけ、分かったことがあった。
あの盟は末端を切り捨てる。効率のために。安く織れる土地を見つければ、それまでの下請けを平気で捨てる。まっとうな商人をだます側に引きずりこんで、用が済めば切り捨てる。
大きくて、効率がよくて、隅々まで行き届いている。──だが、その隅々に切り捨てられた人がいる。
ハイデのように。ハイデの亭主のように。
グラナで、俺は学んだ。街は品でできてるんじゃない。品を作る人。品を売る人。品を買う人。……人でできている。その一人ひとりをちゃんと見て、まっとうに扱うから街は回る。
だが、あの盟は人を見ない。数しか見ない。効率だけを見る。……それは速い。強い。だがどこかで必ず無理が出る。
大きな流れは、末端を見ていない。
……それはいつか、どこかでほころぶ。
俺にはまだ、それが何なのかはっきりとは分からなかった。
だが、ハイデが二十年抱えてきたこの反物が、そのほころびのいちばん最初の糸口のような気がした。
「ハイデ」
俺は言った。
「その反物、大事にしてください。……それは、この街でいちばん、本物の品です」
ハイデは涙をぬぐって、少しだけ笑った。皮肉屋の、いつものハイデの顔で。
「……分かってるよ、小僧」
俺はその反物を、もう一度見た。二十年の時をこえて、なお本物であり続ける一反。……本物は時に負けない。ごまかしは、いつか色あせる。ハイデの亭主が遺したこの反物が、そう教えていた。
その夜、俺は、あの金の輪の紋のことを、長いこと考えていた。
まだ会ってもいない、途方もなく大きな相手。
その大きさのいちばん外れに、ハイデの涙がある。
俺は、それを忘れないでおこうと思った。
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