第206話 だます土壌
辻の秤は少しずつ根づきはじめていた。
まっとうに量ってほしい者。まっとうな品をまっとうな値で売りたい者。そういう人たちがぽつぽつと辻に集まるようになった。
しるしの帳面には、正直な商人の名が少しずつ増えていった。
だが──それを面白く思わない連中がいた。
ある朝、辻の秤の前に見慣れない男が店を広げていた。穀物を山と積んで大声で客を呼んでいる。
「さあ、辻の秤で認められた上等な麦だよ! あの正直な秤が保証した品だ! 安くしとくよ!」
俺はその麦を視た。
「……ダメですね、これ」
俺は言った。
麦の下のほうに、砂と小石が混ぜてある。上だけいい麦を載せてある。よくある手だ。そして──辻の秤が認めた、なんて話は、まるきりの嘘だった。
「そのお麦、辻の秤は認めてません」
俺は集まりかけた客に言った。
「下のほうに、砂と小石が混ぜてあります。上の麦だけいいやつです。量ってみれば、すぐ分かります。……よかったら、そこの秤で量ってみてください」
男の顔がこわばった。
客が辻の秤に麦を載せる。まっとうな目方が出る。麦をかき分ける。──下から、砂と小石がざらざらとこぼれ落ちた。
客がいっせいに男をにらんだ。だまされかけた、と気づいた顔だった。男はあわてて荷をまとめ、逃げるように去っていった。
この街の人もだまされたくはないのだ。ただ、だまされているかどうかを見分けるすべがなかっただけで。
その一部始終をハイデが宿の軒先から見ていた。
「……逆効果だったねえ」
ハイデが言った。
「あいつは、辻の秤の評判を落とそうとしたのさ。『辻が認めた品』が粗悪だったと、そう思わせてね。……だけどあんたがその場で暴いたもんだからかえって秤の信用が上がっちまった」
「そういう狙いだったんですか」
「たぶんね。……気をつけな、小僧。あんたのやってることを面白く思わない連中がいる。これからも、いろんな手で邪魔してくるよ」
ハイデの言うとおりだった。
その日から、嫌がらせは、いろんな形でやってきた。
夜のうちに辻の秤の分銅をすり替えようとする者。正直な商人に、あそこの品は盗品だと噂を流す者。辻に来る客を路地で脅して追い返す者。
そのたびに、俺は品を視て細工を暴いた。すり替えられた分銅も、ひと目で分かる。暴くたびに、辻の信用はかえって上がっていった。
嫌がらせをするほど、辻の秤が正しいことがはっきりしていく。連中はそれに気づいていないようだった。
だが俺は気づいていた。
俺一人では、追いつかない。
この街には何百という店がある。何千という品が毎日、売り買いされている。そのすべてを、俺一人の目で視ることはできない。……俺がいなくなれば、この街は、また元のだましあいに戻ってしまう。
◇
その、辻の秤のそばに、いつも一人の少年がいた。
ヨナ、といった。歳は十四か、十五。ハイデの宿の下働きだ。痩せて目ばかりが大きい。いつも俺が品を視るのをじっと見ていた。
親はいないらしかった。小さいころにだまされて畑を取られ、二親とも流行り病で死んだ。ハイデが拾って宿で使っているのだという。……この街には、そういう子がいくらでもいた。だます土壌は、だまされて身を持ち崩した者を際限なく生んでいた。
「なあ、あんた」
ある日、ヨナが思いきったように言った。
「どうやって、見分けてるんだ。麦に砂が混ざってるとか、革が偽物だとか。……おれにも、見えるようになるか?」
俺は、少し考えた。
「……ものによります」
俺は正直に答えた。
「俺にしか視えないものもあります。でも教えれば、誰でも分かるものも、あるんです」
俺は、そばにあった卵を一つ手に取った。
「たとえばこの卵。古いか新しいか、分かりますか」
ヨナは卵をためつすがめつした。
「……分からない。見た目は同じだ」
「振ってみてください」
ヨナが、卵を振る。
「あ……なんか、中で、ちゃぷ、って」
「古い卵です。中身が減って隙間ができてるから、振ると音がします。新しい卵は詰まってるから、音がしません。……あと水に入れると、古いのは浮きます」
ヨナの目が、輝いた。
「これ……おれにも、できる」
「できます」
俺は言った。
「こういう見分けは、たくさんあります。目方のごまかし。麦の水増し。卵の古さ。……一つずつなら、誰でも覚えられます。俺の目がなくても、分かるようになります」
ヨナは、卵を握りしめて何度も振っていた。まるで宝物でも手に入れたみたいに。
ヨナは飲みこみが早かった。一度教えたことは忘れない。次の日には、自分から古い卵と新しい卵をより分けてみせた。得意げな、その顔。
その様子を見ていて、俺はグラナのことを思い出した。
俺は、あの街でも一人でやっていたわけじゃない。検め場の主任に、若い目利きに見分けを教えた。今、グラナの検め場は、俺がいなくてもちゃんと回っている。三人で一つの流れを作っている。
同じことを、この街でもやればいい。
俺の目は、俺一人のものだ。だが見分けは分けられる。教えれば街に残る。……一人の目利きより、十人の、ほどほどの目のほうが、街を変える。
連合を出るとき、セレネさんが言った。あなたの目は、あなただけのものではない、と。あのときは、よく分からなかった。だが今なら、少し分かる気がした。俺の目そのものは、分けられない。でも俺の目が見つけた見分けの手は、人に渡せる。渡した先で、それがまた誰かに渡っていく。
ヨナに卵の見分けを教えたその日から、辻のそばには、少しずつ見習いのような子どもが集まりはじめた。
まだほんの数人だ。みんな、ハイデの宿の下働きや貧しい家の子だ。だがその子たちが、卵を振り、麦をより分け、秤の狂いを覚えていく。……小さな、小さな芽だった。
ハイデが、その様子を見ていた。
何か言うかと思ったが、ハイデは何も言わなかった。
ただその目が、辻に集まる子どもたちを見て──ふと遠くを見る目になった。
「……昔と、同じだね」
ハイデが、ぽつりと言った。
「昔?」
「なんでもないよ」
ハイデは、それきり口をつぐんだ。
だがその横顔には、いつもの皮肉屋のハイデとは違う、何か古い痛みのようなものがよぎっていた。
この人にも、昔、何かがあったのだ。
俺はそう思った。
だがそのときは、まだそれが何なのか分からなかった。
本作は毎日更新中です。ブックマークしておくと更新通知が届きます。続きをお見逃しなく。




