第202話 最初の秤
秤から。
ハイデはそう言った。俺も、そう思った。
その日から、俺は門の街の秤を、片っ端から視てまわった。フィオナさんが横についた。ハイデが市の顔ぶれを教えてくれた。
そして分かった。
この街の秤は、ひとつ残らず狂っていた。
穀物屋の天秤は、支点がわずかに客の側へずれていた。同じ一袋でも店の分銅より軽く量られる。──客が損をする。毎日のことだ。
塩屋の桝は、底が二重になっていた。見た目は一桝でも中身は八分。──二割かすめ取られている。
肉屋の分銅は中がくり抜かれ、鉛の代わりに木が詰めてあった。本物より軽い分銅で量れば、客はよけいに払わされる。
油屋。布屋。薬屋。──どこも同じだった。
支点をずらした秤。上げ底の桝。中空の分銅。ごまかしの手管が、この街の商いの土台そのものにしみ込んでいた。
フィオナさんがあきれたように言った。
「まっすぐな秤が、一つもないのか。この街には」
「一つだけ、あります」
俺はハイデの宿の軒先を指さした。
「あそこの秤だけ、まっすぐです」
ハイデがふん、と鼻を鳴らした。
「二十年、意地で守ってきた秤さ。まわりがどれだけ狂わせようと、うちの秤だけは目方をごまかさない。……そのおかげで、あたしはずいぶん敵を作ったよ」
一つずつ直させるのは、無理だった。
狂った秤は何百とある。持ち主に直せと言ったところで、聞くはずもない。狂っているから、儲かるのだから。
だが、と俺は思った。
狂った秤を、全部直す必要はない。正しい秤が、たった一つ誰でも使える形でそこにあればいい。
グラナの検め場が、そうだった。あそこも、街じゅうの品を直したわけじゃない。ただ、まっとうな目方とまっとうな値を一つの場所に置いた。するとそこへ、まっとうな品が集まってきた。
「狂った秤とけんかしても、きりがありません」
俺はハイデに言った。
「だから、けんかはしません。ただ正しい秤を一つ置きます。誰でも使える形で。……正しい目方がそこにあると分かれば、人はだんだんそっちを使うようになります。ごまかしの秤は、だんだん使われなくなる。時間はかかりますけど」
ハイデはしばらく、俺の顔を見ていた。
「……妙な小僧だね、あんたは。この街を、力で変えようとも金で変えようともしない。ただ秤を一つ置くだけ、か」
俺はハイデの宿の辻に、もう一つ、秤を据えることにした。
ハイデの軒先の秤は、宿の客のためのものだ。それとは別に、辻のまんなかに誰でも使える秤を置く。目方を確かめたい者は誰でも。売り手も買い手も。
分銅はヴィオラさんが出してくれた。連合の、まっとうな目方の分銅だ。ヴィオラさんが帆の荷の底から、大事にしまっていたひと組を出してきた。
「これは連合の検め所の、正しい目方よ。……この街で、これが役に立つ日が来るとはね」
俺はその分銅で辻の秤をまっすぐに合わせた。支点を確かめて皿の釣り合いを取り、狂いのないことを何度も確かめた。
それから荷の底から、しるしの帳面の写しを取り出した。
連合を出るとき、セレネさんが託してくれたあの帳面だ。この街では、ただの紙切れだと思っていた。だが──使い道は、あった。
俺は新しい紙をとじ、そこに書きはじめた。まっとうな目方で量った品。まっとうだと確かめた商人。ごまかしのなかった取引。──その一つ一つを、書きつけていく。
グラナで、そうしていたように。
ヴィオラさんがその帳面を横から覗きこんだ。
「……なるほどね。正直な品と、正直な商人の名簿か。これが増えるほど、この辻はまっとうな品の集まる場所になる。まっとうな品が集まれば、まっとうな買い手も集まる。……ふふ。連合の帳面が、こんな土地で芽を出すなんてね」
ヴィオラさんの目は、もう商機を数えていた。
だが辻に正直な秤を据えても、初めは、誰も寄りつかなかった。
遠巻きに、うさんくさそうに眺めているだけだ。タダで目方を量らせる? 何かの罠だろう。裏があるに決まってる。──この街の人々は、正直をまず疑った。だまされ慣れた者は、親切さえ、だましの手口だと思うのだ。
最初にその秤を使ったのは、一人の、痩せた老人だった。
わずかな豆を袋に入れて売りに来た貧しい百姓だ。どうせ、いつもの店で買い叩かれる。そう思いながら、ためしに辻の秤に豆を載せた。
俺は目方を読んだ。それからその豆を、視た。
「……いい豆ですね。虫も、混ぜ物もない。よく育てた豆です」
老人が目を見開いた。
この街で自分の豆をいい豆だと言われたのは、初めてだったのだろう。ずっとくず豆みたいな値で買い叩かれてきた。ごまかしの秤で目方まで削られて。
その豆は、ハイデが正直な値で買い取った。
老人は震える手で銭を握った。まっとうな目方の、まっとうな値。削られていない銭だ。
「……こんなことが、あるのか」
老人はそうつぶやいて、何度も頭を下げて、帰っていった。
それが、始まりだった。
一人がまっとうな値で豆を売った。その話が、ぽつりぽつりと辻に広がっていく。あそこの秤は狂っていない。あそこでは、いい品をいい品と言ってもらえる。──だまされ慣れた街に、ほんの小さな正直の芽が、ひとつ、頭を出した。
次の日には、もう一人。その次の日には、三人。まだ、ほんのひと握りだ。だが辻の秤の前に、少しずつ人が並びはじめた。買い叩かれるのに疲れた者。だまされるのにうんざりした者。この街にも、そういう人がいないわけではなかった。ただまっすぐな秤が、一つもなかっただけで。
俺はただ、まっすぐな秤を一つ置いただけだ。グラナでやったことと、何も変わらない。
なのにハイデは、その様子を見て、なぜか少し泣きそうな顔をしていた。
「……二十年だよ」
ハイデがぽつりと言った。
「二十年、あたし一人でやってきた。無駄だと思いながら。……あんた、来て、たった一日で」
ハイデはそれ以上、言わなかった。
だが正直な秤は、この街では、目立ちすぎた。
辻の隅で、腕を組んだ男たちがこちらをじっと見ていた。あの値踏みする目。用心棒くずれだ。まっとうな秤でいちばん困るのは、ごまかしで儲ける連中だ。そしてその連中の後ろには──。
俺の正直な秤は、この街のだれかの商売の邪魔を、しはじめていた。
その晩。
辻の秤の据わった宿に、柄の悪い男たちがぞろぞろと姿を現した。
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