第201話 女傑ハイデ
翌朝、俺たちはハイデの宿を訪ねた。
その宿は大通りから一本入った、広い辻に面していた。
ひと目で違う、と分かった。
まわりの店はどこも薄汚れて、どこか崩れかけている。だがその宿だけは壁がきちんと塗られ、戸口が掃き清められていた。二階建ての、どっしりとした建物。看板もない。だが人の出入りはどの店より多かった。
そして戸口に、秤があった。
大きな、公用の天秤だ。誰でも使えるように、宿の軒先に据えてある。商人たちがそこで荷の目方を量っていた。順番を待つ列さえできている。
俺はその秤を、視た。
……まっすぐだった。
支点も皿も分銅も、どこにもごまかしがない。この街に来て初めて見る正直な秤だった。あの大商人の言ったとおりだ。この宿の秤は目方が正直だと、みんな知っている。だからまっとうに量りたい者は、ここへ来る。
その秤のわきに、一人の女が腕を組んで立っていた。
背が高く、肩幅も広い。四十がらみだろうか。日に焼けた顔に深いしわ。だがその目は、鷹のように鋭かった。量りに来た商人の一人が分銅にこっそり指を添えようとして──女にじろりとにらまれ、手を引っ込めた。
この人だ、と思った。
「あんたが、ハイデさんですか」
俺が声をかけると、女はじろりとこちらを見た。頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように。
「……誰だい、あんたたち」
「レイ、といいます。昨日、この街に着いたばかりで」
「ああ」
女の──ハイデの、片方の眉が上がった。
「聞いたよ。血玉をガラスだと言い当てた小僧がいるって。人だかりのど真ん中で大恥かかせたって。……もしかして、あんたかい」
「……はい。その、すみません」
「なんで謝るのさ」
ハイデは鼻を鳴らした。
「本物のことを言って、なぜ謝る。──もっとも、この街じゃ、その正直が命取りになるんだけどねえ」
ハイデの目が、すっと細くなった。
「で。その目のいい小僧が、あたしに何の用だい」
俺は正直に話した。この街に足場がほしいこと。だますのが当たり前のこの街に、まっとうな商いをする場所を一つ作りたいこと。そのために、まっとうな商いをただ一人通しているというあなたに、会いに来たこと。
ハイデは腕を組んだまま、俺の話を聞いていた。
聞き終えても、しばらく何も言わなかった。
「……あんたの目が本物かどうか、あたしはまだ、信じちゃいないよ」
ハイデはようやく口を開いた。
「血玉がどうのってのも、どうせまぐれか、はったりだろう。この街にゃ口のうまいペテン師なら、掃いて捨てるほどいる。……ちょうどいい。あんたの目、試させてもらおうか」
ちょうどそのとき、宿の裏手から、荷を積んだ男が現れた。
樽を積んだ荷車。酒屋だった。
「女将さん、今月の酒だ。上物だよ。いつもどおり、混ぜもんなしのな」
男はへらへらと笑っていた。ハイデはその樽を、じっと見た。
「……ゴードン。あんたの酒は、いつも、なんだか水っぽい気がするんだよ」
「よしとくれよ女将さん。うちの酒に水なんざ一滴も入っちゃいねえ。神に誓ってな」
ハイデはしばらく男をにらんでいた。だが証拠がない。毎月そう思いながら、証だてができずに、買わされてきたのだろう。
ハイデが俺のほうを顎でしゃくった。
「小僧。この樽、視てみな」
俺は樽に近づいた。
栓を抜くまでもなかった。樽の木目。中で揺れる液の重さ。匂い。──視えた。
「……ダメですね、これ」
俺は言った。
「三割は水です。それも、ただ薄めただけじゃない。薄めた分だけ色が抜けるから、焦がした砂糖を溶かして色とコクを付け足してます。……手の込んだ水増しです」
しん、となった。
酒屋の男の顔から、へらへら笑いがはがれ落ちた。
ハイデが樽の栓を抜いた。指を浸してなめる。目を閉じる。
それからかっと目を開けて、酒屋の男を見た。
「……ゴードン。あんた」
「い、いや、女将さん、これは、その」
「三年だ」
ハイデの声は低く静かだった。それがかえって凄みがあった。
「三年、あんたから酒を買ってきた。水を飲まされて上物の値を払ってきた。……道理で、うちの客がよそより酔わないわけだ」
「ま、待ってくれ女将さん! 今回だけだ、今回だけ、ちょっと足が出て──」
「帰りな」
ハイデはそれだけ言った。
酒屋の男は真っ青になって樽を積み直し、荷車を引いて逃げるように去っていった。
辻に、静けさが戻った。
ハイデはしばらく、去っていく荷車を見ていた。それからゆっくりと俺のほうを振り返った。
その目がさっきとは違っていた。
「……本物だね。あんたの目」
「はい。まあ、視えるだけ、ですけど」
「視えるだけ、ね」
ハイデはふっと笑った。皮肉な笑いだった。だがその奥に、何か別のものがあった。
「あたしはね、小僧。この街で二十年、まっとうな宿をやってきた。秤だけはまっすぐにして。……でも、あたしの目はこんなもんさ。三年も水を飲まされて気づかなかった。あんたみたいに、樽を見ただけで、なんてわけにはいかない」
ハイデは腕を組み直した。
「あんた、この街で足場がほしいんだろう。正直な商いの」
「……はい」
「使いな。うちの宿を」
俺は思わず、聞き返した。
「いいん、ですか」
「タダじゃないよ」
ハイデはぴしゃりと言った。
「あんたのその目、うちのために働いてもらう。仕入れの目利き。宿に来る商人の品の検め。……あたしは長いこと、正直な秤だけでこの街と戦ってきた。だけど秤だけじゃ足りなかった。品の中身までは見抜けない。あんたの目があれば──」
ハイデは言葉を切った。それから少しだけ遠くを見る目になった。
「……いや。よしとこう。期待はしないよ。この街は変わらない。二十年、あたしが見てきた限りじゃね。あんた一人が正直でも、この街のだましあいは、なくなりゃしない」
ハイデの声は乾いていた。だがその乾いた声の底に、ずっと昔にあきらめきれなかった何かが沈んでいる気がした。
「それでも、だ」
ハイデは俺を、まっすぐに見た。
「あんたが、この街を、少しでもまっとうにしたいってんなら。……まず、秤からだよ、小僧」
「秤、ですか」
「この街の商いは、ぜんぶ、秤の上で回ってる。その秤が、ぜんぶ狂ってる。目方をごまかす秤。かさをごまかす桝。それを、だれも直そうとしない。……秤がまっすぐにならなきゃ、何を売ろうが何を買おうが、ぜんぶ、だましあいのままさ」
ハイデは軒先の、まっすぐな秤を指さした。
「あたしの秤は、この一つきり。あんたに、この街の秤をまっすぐにできるかい」
俺はその秤を見た。
この街にたった一つの、正直な秤。
それを一つから二つに。二つから十に。──気の遠くなる話だった。だがやることは決まっていた。
「……やってみます」
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