第200話 一からの秩序
その夜、宿の戸を、誰かがそっと叩いた。
フィオナさんがさっと槍を取った。俺の後ろにヴィオラさんが立つ。俺は用心しながら、戸を細く開けた。
立っていたのは、昼間のあの大商人だった。
人だかりの中で、革袋三つ分の金貨を危うくガラスに払いかけていた男。身なりはいい。だが今は供も連れず、外套の頭巾を目深にかぶり、まるで人目を忍ぶようにして立っていた。
「……夜分に、すまない」
男は低い声で言った。
「昼間の、あんただな。血玉を、ガラスだと言った」
俺は身構えた。仕返しに来たのか、と思った。だが、男の目に敵意はなかった。あるのは怯えと──それから深い安堵だった。
「礼を言いに来た」
男はそう言って、頭を下げた。
「あんたのおかげで、わたしは破滅せずにすんだ」
男は声を落とした。
「あの血玉は、わたしが買って、そのまま上に納めるはずだった。……盟の、お偉方にな。もし偽物と知らずに納めていたら、わたしは信用を失い、店ごと潰されていた。この街で盟に恥をかかせるというのは、そういうことだ」
盟。
また、その名が出た。この街のどこを掘っても、あの金の輪の影が根のように這っている。
「あんたは命の恩人だ。だが──」
男はいっそう声を低くした。
「だからこそ忠告しておく。あんた、目をつけられたぞ。今日、大勢の前で偽物を偽物と言った。あの石を売っていた男は、ただのかたり者じゃない。この街の偽物を束で流している連中の下っ端だ。その後ろには、もっと大きいのがいる。……あんたは、その商売に泥を塗ったんだ」
「そう、みたいですね」
俺はうなずいた。実感はあまりなかった。
「この街で、偽物を偽物と言って無事だった者はいない。あんたも明日には、街にいられなくなるかもしれん。悪いことは言わない。荷をまとめて、この街を出るんだ」
「……」
俺は黙っていた。
出て行け。それがいちばん賢い。分かっている。だが俺の口は、別のことを聞いていた。
「一つ、教えてください」
俺は言った。
「この街に、まっとうな商いをしている人は、いないんですか。一人も」
男は驚いたように俺を見た。それからしばらく迷って声をひそめた。
「……一人だけ、いる」
「一人?」
「宿場の女将だ。ハイデ、という。この街でただ一人、秤をごまかさない女だ。あの人の宿の秤は目方が正直だと、みんな知っている。だからまっとうに商いをしたい者は、あの人の宿に集まる。……もし、あんたを助ける者がいるとすれば、あの人しかいない」
ハイデ。
俺はその名を、胸に刻んだ。
男はそれだけ言うと、懐から小さな包みを出して、俺の手に握らせた。
「礼だ。取っておいてくれ」
包みの中には、金貨が一枚。
俺はそれをちらと視た。
……削られていない。縁も、目方も、そのままだ。混ぜ物もない。この街に来て初めて見る、痩せていない金貨だった。混ぜ物のないまっとうな一枚。
「……ちゃんとした金貨ですね」
俺が思わずそう言うと男は少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「そんなことを言うのは、この街であんたくらいだ」
男はふと足を止めて、付け加えた。
「もし、あの女将を訪ねるなら、覚悟しておくことだ。ハイデはよそ者を信じない。この街で正直を通すために、あの人がどれだけのものを背負ってきたか……なまはんかな気持ちで近づけば、追い返される。腕っぷしも、口も、あんたよりずっと立つ人だからな」
男は頭巾を深くかぶり直し、夜の中へ足早に消えていった。
戸を閉めて、俺は振り返った。
フィオナさんもヴィオラさんも、じっと俺を見ていた。
「……出て行く?」
ヴィオラさんが聞いた。
俺は少し考えて首を横に振った。
「いえ」
「そう言うと思った」
ヴィオラさんはため息とも笑いともつかない息をついた。
「レイ。これだけは言っておくわ。あの男の言うことは正しい。今日のあなたのしたことは、この街の秩序に泥を塗った。……でも、その秩序ってのは、だましあいの秩序よ。壊して、惜しいものかしら」
ヴィオラさんの目に、商人の光が戻っていた。
「もし、この街に正直な商いが根づいたら。……それは途方もない商機だわ。今は誰も、まっとうな品を持ってこない。だからまっとうな品には値がつく。あなたの目があれば──ふふ。悪くないわ」
俺は窓の外を見た。
門の街の夜は、まだざわついていた。あちこちに灯りがともり、酔った声や争う声が風に乗って流れてくる。だます街の眠らない夜。
一日この街を歩いて、分かったことがある。俺の目一つで、どうにかなる相手ではない。今日ガラスを一つ暴いたところで、明日にはまた別の誰かが別の偽物を売る。この街の無法は、あまりに深く、あまりに大きい。
でも、と俺は思う。
グラナも、最初は何もなかった。買い叩かれる、忘れられた街。俺が着いたとき、検め場も帳面も、まっとうな値も何もなかった。それを一つずつ作ったのだ。傷んだ品を、傷んでいると言うことから。正直な秤を、一つ置くことから。
思えば、俺がこの目で最初にしたことも、それだった。会頭の部屋で、仕入れた品がダメだと言った。ただそれだけ。あのときは追放された。だがグラナでは、同じことが街を一つ生き返らせた。同じ目。同じ一言。それがどう転ぶかは、土地しだいなのだ。
この土地では、どうだろう。
ここにも、それをするだけだ。
保証もない。組合もない。掟もない。何もない土地に、一から信用を積む。──気の遠くなる話だ。だがやることは、グラナのときと何も変わらない。
「……足場を作りましょう」
俺は言った。
「この街に。一つでいい。正直な品を、正直な値で売る場所を。だますのが当たり前のこの街に、だまさなくてもやっていける場所が一つでもあれば。……そこから、何かが変わるかもしれない」
フィオナさんがにっと笑った。
「面白くなってきたじゃないか」
その手はもう槍を担いでいた。
よそ者三人と、一台の帆。それがこの無法の街に立てる、たった一本の旗だった。心もとない。だがグラナも始まりはもっと心もとなかった。あのときは俺一人だった。それに比べれば、頼もしい仲間が二人もいる。
俺は握ったままの金貨を見た。
削られていない、まっとうな金貨。この街にも、まだこういうものが残っている。まっとうをあきらめていない人が。
ハイデ、という女将が。
「明日、会いに行きましょう」
俺は言った。
「その、女将さんに」
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