第196話 遠い本部から
その晩、宿場でヴィオラさんが、二通の文を俺に差し出した。
「連合から追いついてきたわ。うちの荷馬車が、行き帰りに運んでくれたの。あなた宛てよ」
俺は少し驚いた。連合の際を越えてから、もうずいぶん来た。ここまで便りが届くとは思わなかった。ヴィオラさんの帆は、俺が思っているよりずっと遠くまで伸びているらしい。
二通の紙は旅の埃で少しくたびれていた。何人もの手を渡り何日もかけて、連合の外れからここまで追いかけてきた紙だ。その道のりを思うと、開く前から胸が少しあたたかくなった。遠く離れても、俺のことを思って筆を執ってくれた人がいる。
一通目は、セレネさんの文だった。
几帳面な、まっすぐな字だ。俺は蝋燭のそばでそれを開いた。
『レイへ。
本部の改革は少しずつ進んでいます。徽章と、外れを見抜く目。二つを組み合わせる仕組みが連合じゅうの支部に広がりはじめました。テオが忙しく駆け回っています。父は退いた身ですが、遠くから見守ってくれています。
しるしの帳面は、刷り続けています。あなたが連合の外へ持っていった写しが、いつか役に立つ日が来ると信じて。──あなたの目は、もう、あなただけのものではありません。連合じゅうの目利きがあなたの視方を少しずつ受け継いでいます。
わたしはここを離れられません。改革はまだ始まったばかりだから。あなたは新天地で、わたしはこの本部で。同じものを目指して、別々の場所にいる。……少し、不思議な気持ちです。
母の腕輪は毎日つけています。継ぎ目のある腕輪です。壊れたものでも、直せばまた使える。あなたがそう教えてくれました。
無理を、しないでください。あなたは一人で背負いすぎるところがあるから。
セレネ』
俺はその文をもう一度読んだ。
本部の改革が進んでいる。それが何よりだった。組合が変わっていく。徽章が、格式の飾りから品を視る証へ。セレネさんとテオさんがその真ん中にいる。遠く離れていても、みんなちゃんと前へ進んでいる。
いい知らせだ。俺は素直にそう思った。
それにしてもセレネさんは変わった。初めて会ったときは、俺のやり方をいちばん認めない人だった。それが今では組合の改革の真ん中に立って、俺の視方をみんなに広げようとしてくれている。人は変わる。街も変わる。遠くにいても、それが伝わってくるのが嬉しかった。
二通目は、ミレイユさんの文だった。
少し急いで書いたような、丸みのある字だ。
『レイさんへ。
グラナは、変わりありません。ガロさんは相変わらずいい鉄を打っています。ドニさんの店は、この間また品を増やしました。トーロさんは坑道で毒と崩れの印を守って、一人も欠けさせずにやっています。子どもたちは、あなたがいないのを寂しがっています。
検め場も、うまく回っています。主任さんと、若い目利きの子が、あなたのやり方をちゃんと継いでいます。あなたがいなくても、グラナは回る。──あなたが、そういう仕組みにしてくれたから。
でも。
ときどき、検め場のほうを見て、あなたがいないことを思い出します。あそこに、あなたが立っていないのが、まだ少し慣れません。
グラナは、あなたの帰る場所です。いつでも。どんなときでも。だから、行っておいでなさい。心ゆくまで。そうして、疲れたらいつでも帰ってきてください。
……長として、送り出しました。だから、これ以上は、書きません。
ミレイユ』
俺は文を膝の上に置いた。
胸の奥があたたかくなった。グラナがちゃんと回っている。みんな、元気にやっている。それが何より嬉しかった。
みんな、いい仲間だ。遠く離れても、こうして俺を気にかけてくれる。ありがたいことだ。俺みたいな追放された検品係を、こんなに気にかけてくれる人が、いる。──俺は、恵まれている。
文の最後の一行を、俺はもう一度見た。長として送り出しました。だから、これ以上は書きません。──ミレイユさんらしいと思った。いつも自分のことは後回しにする人だ。ギルドの台所を一人で背負って。俺はその人が抱えているものの重さを、ちゃんと分かっているだろうか。ふと、そんなことを思った。
横から、フィオナさんが文をのぞきこんできた。
「なんだ、その手紙。二人からか」
「はい。セレネさんと、ミレイユさんからです」
「ふうん」
フィオナさんは、なぜか、少しむくれた顔をした。
「……あたしは、手紙なんか書かないぞ。だって、あたしは、ここにいるからな。あんたのそばに」
「そうですね。心強いです」
フィオナさんはますますむくれて、干し肉をかじりはじめた。旅のあいだ、ずっと俺のそばにいる人だ。手紙なんていらない。たしかに、その通りだ。フィオナさんはいつも、まっすぐ俺のそばにいてくれる。……それがどういう気持ちからなのか、俺はやっぱりうまく分かっていなかった。
◇
同じ頃、グラナ。
ミレイユは、ギルドの窓辺で暮れていく街を見ていた。
便りは、もう出した。ヴィオラの伝手に託して、連合の際まで運んでもらう。あとは届くのを祈るだけだ。
書きたいことは、もっとあった。だが、書かなかった。長として送り出したのだ。行く背を引き止めるようなことは、書けない。
初めてレイをギルドに迎えた日のことを、ミレイユは思い出した。行くあてもない、痩せた検品係。放っておけなくて、雇った。あのときはまさか、この街を丸ごと変える男になるとは、思わなかった。
あの日雇わなければ、この街は今もまだ商会に買い叩かれる忘れられた街のままだったろう。レイは自分のしたことの大きさを、たぶん今も分かっていない。それでいい、とミレイユは思う。分かっていないから、あの人はどこへでも行ける。
今その男は、連合の外の無法の土地にいる。放っておけない土地を、また放っておけずに。
「……あなたは、変わらないのね」
ミレイユは小さく笑った。窓の外で、グラナの灯りが、一つ、また一つと灯っていく。レイが立て直した、この街の灯りだ。
その灯りはいつでも、帰る背を照らせるように灯っている。
◇
翌朝、俺たちはまた街道を行った。
昨日の二通の文を、俺は荷の奥に大事にしまった。しるしの帳面の、すぐ隣に。連合の、いちばん大事なものたちの隣に。
昼を過ぎた頃だった。
街道の先に、それは見えてきた。
大きな街の、影だった。土壁の連なり。立ちのぼる煙。城壁のような、ぐるりと囲む塀。今まで見てきた、どの宿場町よりもずっと大きい。
その影は近づくほどに大きくなっていった。まっとうな商いをする女将がいるという街。山の道を知る探索者がいるという街。この土地のまともな者たちが集まるという街。──そして、あの金の輪の影が、いちばん濃く落ちているだろう街。
「あれが──」
隣でヴィオラさんが言った。
「門の街よ」
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