第192話 助けた相手
その晩、宿の卓で、俺たちは昼間の行商人と向かい合っていた。
男は礼にと、荷から干した果実を出してくれた。杏を干したものだ。琥珀色に透きとおって粉をふいている。この土地ではなかなかの上等の品だという。
俺はその果実を一つつまんで視た。
久しぶりに、まっとうな品だった。
「……これは、いい品ですね」
俺は少し驚いていた。この町に来てから初めて口にする言葉だった。狂った秤。土の薬。だまされた品ばかり見てきた目に、それは新鮮だった。
「甘みがちゃんと乗ってます。傷んでもいない。染めも、混ぜ物もない。種のまわりまで、丁寧に干してある。──正直に作った品です」
行商人は目を丸くした。それから照れたように笑った。
「……分かるのか、あんた。ひと目で。値も聞かず、割りもせずに」
「はい」
「まいったな」男は頭をかいた。「この杏は、俺の里の自慢でね。日当たりのいい斜面で採れる。混ぜ物なんてしない。ちゃんと採って、ちゃんと干して、ちゃんと売る。──だがこの土地じゃ、それが仇になるのさ」
男は干した果実を一つ、口に放った。
「正直に作った品は、高くつく。手間がかかるからな。だが客は安い偽物のほうへ流れちまう。どうせだまされるなら、安いほうがいい、ってな。混ぜ物をした杏のほうがよく売れる。……正直者から先に潰れていく土地だよ、ここは」
男は少し寂しそうに笑った。
「あんたみたいに、ひと目で良し悪しを見抜いてくれる客がいれば、俺たちも救われるんだが。──この土地にゃ、そんな目を持った奴はいない。良い品も悪い品も、ぜんぶ同じ値で買い叩かれる。だんだんまともに作るのが馬鹿らしくなってくるのさ」
俺はその言葉が、胸に残った。正直者から先に潰れていく。それは、この土地がいちばん壊れているところだ。まっとうに作る者が報われない。だます者が得をする。それではいつか、まっとうな品そのものが、この土地から消えてしまう。げんに、消えかけている。今日ひと目で良い品と分かったこの杏も、この土地ではもう、珍しいものになりかけていた。
俺はこの土地で正直に商いをしている人が他にもいるのか、と尋ねた。
男は少し考えてそれから言った。
「……門の街に、一人いる」
「門の街?」
「ここより、ずっと先の大きな宿場町だ。この土地でいちばん、人と荷が集まる街さ。──そこに、宿をやってる女将がいてな。顔役みたいなもんだ。あの人は、まっとうな商いを通そうとしてる。だまさない、だまされない。正直な品を、正直な値で。そういう店を、あの無法の街のど真ん中で、たった一人で張ってるんだ。俺たちみたいな正直者は、みんなあの人を頼りにしてるよ」
女将と俺は胸のうちで繰り返した。名も、顔も知らない。だがこの土地に、俺と同じことをしている人がいるらしい。だまされ慣れた土地のまんなかで、まっとうな商いを、一人で守っている人が。
「門の街には、古い坑道もある」男は続けた。「昔から潜ってる探索者がいてな。あの坑道のことは、あの男に聞くのがいちばんだ。地形も、危ないところも、掌みたいに知ってる。……もっとも、ひどく気難しくて、よそ者には口もきかんって話だがね」
俺はその話を頭の隅にしまった。門の街の、女将と、坑道の探索者。名も知らない二人を。
それから俺は昼間の用心棒くずれのことを尋ねた。あの偽物だらけの得物は、どこから流れてくるのか、と。
男の顔が少し曇った。
「……元をたどれば、みんな一つの大きな商いに行きつくのさ。この土地の品も、金も、荒くれどもも。ずっと遠くに、途方もなく大きな盟があってな。この土地ぜんぶが、その盟の裾野みたいなもんだ。俺たち小者は、その裾で、だましだまされ、生きてるだけ。──だがその話はやめておこう。口にするのも、はばかられる相手だ」
男はそれきり盟の話をしなかった。まるで名を口にするだけで祟りがある、とでもいうように。
ずっと遠くに、途方もなく大きな何か。──連合を出たときに、ヴィオラさんが言っていた影の正体だろうか。俺にはまだ見えなかった。だがこの土地の、狂った秤も、土の薬も、偽物の剣も。その元をたどれば、一つのところへ行きつくのかもしれなかった。
俺はその女将のことを、もう一度思った。名も知らない。顔も知らない。だがきっとこの土地でずっと独りで戦ってきた人だ。だまさない。だまされない。それを通すのがこの土地でどれだけ難しいか。今日一日で、俺にも痛いほど分かった。狂った秤。土の薬。偽物の剣。そのただ中で、正直を貫く。それは俺がグラナでやってきたこととよく似ていた。会ってみたい。同じ荷を独りで背負ってきた人に。
ヴィオラさんは卓の隅で杯をなめながら、門の街の話に耳を澄ませていた。
「門の街、ね」
その目が商機を見つけた者の目になっていた。
「いちばん人と荷が集まる街。まっとうな商いを通したい女将。……悪くないわ。とても、悪くない」
フィオナさんが、干した果実をかじりながら言った。
「行き先が決まったな。その、門の街ってとこに行けばいいんだろ」
「そうですね」
俺は行商人に礼を言った。助けたのは、ほんの成り行きだ。困っている人がいたから、割って入った。それだけのことだ。だが男はそれを大げさなことのように何度も感謝した。この土地では見返りのない親切が、それほど珍しいらしい。
卓に残った干した果実は、ほんのりと甘い匂いがした。まっとうな品の匂いだ。混ぜ物のない正直な匂い。この匂いを、この土地の人はもう長いこと忘れているのかもしれない。だが忘れただけなら、また思い出せる。なくしてしまったわけではない。俺はそう思いたかった。門の街へ行けば、その手がかりがきっとある。
男が帰ったあと、俺は卓に残った干した果実を、一つ手に取った。
まっとうな品。この土地に来て、たった一つだけ見つけた、正直な味。
門の街に、俺と同じことをしている女将がいる。名も知らないその人のことを、俺はなぜか少しだけ会ってみたいと思った。だまされ慣れた土地の、まんなかで。正直な商いを、たった一人で張っている人。
俺たちの行き先が決まった。
明日から、俺たちは門の街を目指す。
その道の先に、途方もなく大きな影が待っていることを、このときの俺はまだ知らなかった。
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