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第190話 だまされ慣れた人々

 翌朝、宿の井戸端に一人の女がいた。


 やせた女だった。背中に小さな子を負っている。子は熱があるらしい。頬が赤く、息が浅い。ぐったりと母の背にもたれて、まぶたを半分閉じていた。もう幾晩も、熱が下がっていないのだろう。


 女は井戸の縁に紙包みを広げ、中の粉を匙で慎重にすくっていた。赤茶けた粉だった。一粒もこぼすまいと、指先が震えている。それを椀の水に溶かし、子に飲ませようとしている。


 俺はその粉を、なにげなく視た。


 そして動きが止まった。


 薬ではなかった。


 干した薬草をすりつぶしたものではない。ただの土だった。きめの細かい赤土を、赤い草の汁で染めて、薬らしい色をつけただけ。飲んでも害はない。だが効き目もない。子の熱には、何ひとつ効かない。ただの、色をつけた土だ。


 俺は迷った。


 言えば、この母の望みを断つことになる。すがっているものを、取り上げることになる。だが黙っていれば、子はただの土を飲まされ続ける。熱は下がらないまま、日ばかりが過ぎていく。


 ……放っておけなかった。


「……その薬、どこで買ったんですか」


 俺が声をかけると、女は用心深く俺を見た。よそ者を警戒する目だった。


「行商の人から。よく効く熱冷ましだと言われて。……高かったけど、この子のためだから」


 俺はしゃがんで、女の目の高さになった。


「奥さん。その粉は、薬じゃありません。ただの土を、薬らしく染めたものです。飲んでも熱には効きません」


 女は俺をじっと見た。


 驚きも、怒りもしなかった。ただゆっくりとまばたきをして、それから小さく息を吐いた。長いあいだ胸にためていたものを、そっと吐き出すような、そんな息だった。


「……やっぱりそうだったの」


 その声があまりに静かで、俺は言葉を失った。


「うすうす、分かってた。飲ませても、ちっとも熱が下がらないもの。においも、薬っぽくないし。……でも他に手がなくて。何もしないよりは、ましだと思って。すがってでもいないと、この子が助からない気がして」


 女は子の背をそっとさすった。


「この町の薬は、みんなそう。ちゃんと効く薬なんて、見たことがない。医者もいない。だまされるのは分かってるの。それでも買うのよ。他にすがるものが、何もないから」


 俺はなにも言えなかった。


 だます側が悪びれない町。だまされる側ももう怒らない町。──昨日、狂った秤を見て分からなかったことが、いまはっきりと分かった。この町の人々は、諦めていた。正直な品なんて、この世にないと思いこんでいた。だから狂った秤も直さない。土の薬を、承知で飲む。直せることも、まっとうな品があることも、誰ひとり信じていなかった。


 諦めた人からは怒りさえ、こぼれ落ちてしまうのだ。


 俺はこの町のことが、少しだけ分かった気がした。昨日、市で見た狂った秤。誰も直そうとしなかった秤。あれとこの土の薬は、根っこが同じものだ。人が悪いのではない。この土地の人はまっとうな品を知らないだけだ。生まれたときからまわりはだます者ばかりで、だまされて、だまされて、そういうものだと思って育つ。正直な秤も、本物の薬も、見たことがない。だから期待もしない。期待しなければ、裏切られて傷つくこともない。諦めはこの土地の人を守る、たった一つのよろいなのかもしれなかった。だがそのよろいの下で、子どもがただの土を飲まされている。


 俺はヴィオラさんを呼んだ。


 ヴィオラさんの隊商には、連合の薬種が積んである。まっとうな品だ。俺は熱冷ましの薬草を一包み、分けてほしいと頼んだ。


 ヴィオラさんはしばらく俺を見ていた。


「……一人にやれば、明日は十人が並ぶわよ。この町じゅうの病人があなたを頼ってくる。全部は背負えない。あなたは、そういうことをしようとしてる」


「分かってます。それでもこの子には」


 ヴィオラさんは小さく息をつくと、荷から薬草の包みを取り出した。手つきは、ためらいがなかった。


「商いにならないわね、まったく」


 口ではそう言いながら、女に薬草を渡した。俺はその薬草の煎じ方を女に教えた。本物の薬草の、青くて苦い匂い。土の粉とは、まるで違う匂い。女はそれを胸に抱いて、何度も頭を下げた。そして泣いた。


 薬が効いたからではない。効くかどうかは、まだ分からない。ただこの町で初めて、本物を手にしたからだった。だまされなかったことが、その母には薬そのものより効いたのかもしれない。


 女は去りぎわに、一度だけ振り返った。


「あなたは……なぜ、教えてくれたの。この町の人は、他人がだまされていても、知らんぷりをするのに」


 俺は少し考えた。うまく答えられなかった。ただ目に入ってしまったから。だまされていると視えてしまったから。それを黙っていられなかった。それだけだ。


「見えたら、言うだけです。俺にできるのは、それくらいなので」


 女はよく分からないという顔をした。それでも、もう一度深く頭を下げて、子を背負い直して去っていった。その足取りは来たときより、少しだけしっかりして見えた。


 俺はふと連合を出る前に会った、痩せた男を思い出した。


 偽の銘の短刀にだまされて身ぐるみ剥がれた男。あの男もこういう土地から出てきたのだろうか。だまされ慣れた土地で育って、だまされることに慣れて、それでも一山あてようとして、連合でまただまされた。


 だます土地は、だまされる者を際限なく生み出していく。すがるものを求める人の心に、偽物を売りつけて。


 この土地を変えるのは、たぶん、とほうもなく難しい。狂った秤が一つや二つではない。だまされ慣れた人が数えきれないほどいる。俺ひとりの目では、とても追いつかない。


 だがグラナも、はじめは俺ひとりだった。ひとりが、ダメなものをダメだと言い続けた。それがいつしか街を変えた。ここでも同じことが、できるだろうか。──分からない。だがやることは、変わらない。目に入ったものを、見たまま言うだけだ。


 女が去ったあと、俺は通りに出た。


 通りの向こうから、こちらを見ている目があった。


 柄の悪い男が三人。腰に得物を下げている。よそ者が、朝から人だかりを作って、薬がどうの秤がどうのと騒いでいる。──それがこの町の誰かの気に障ったらしい。


 男たちは、まっすぐ俺たちのほうへ歩いてきた。

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