第189話 掟のない宿場
宿場町は思っていたより大きかった。
境の石から半日。乾いた道の先に、板と土でできた家がひしめいていた。塀もなければ門もない。ただ人と荷が集まって、いつのまにか町になった、という風だった。家と家のあいだに道が通り、道に沿って店が並ぶ。連合の宿場のような検め所はどこにもない。紋も、しるしの帳面も、番人の姿もない。
それでも市は立っていた。
通りの両脇に露店がひしめく。穀物、塩、干し肉、布、油。店主が声を張り上げて客を呼ぶ。荷を担いだ旅商人が行き交う。値をめぐって怒鳴り合う声。銭のふれあう音。──見た目だけなら、連合の市とさして変わらない。にぎやかで、活気がある。
俺はふと一つの露店で足を止めた。
穀物を量り売りする店だった。店主が客の袋へ、秤で麦を量っている。天秤の秤。片方の皿に分銅、片方の皿に麦。ごくありふれた道具だ。連合でもどこの店にもある。
だが──。
「……ダメですね、これ」
俺は思わずつぶやいた。
秤の支点がずれている。ほんのわずかだ。麦をのせる皿のほうが、分銅の皿より支点に近い。てこの理屈で、同じ重さでも麦の側が軽く傾く。分銅の目方より少ない麦で、皿が釣り合ってしまう。つまり客は払ったぶんより一割少ない麦しか受け取れない。毎度、毎度、少しずつ。
俺は店主に声をかけた。
「その秤、支点がずれてますよ。客が損をする作りです」
店主が俺を見た。悪びれもしない。眉一つ動かさない。
「ああ、そうだよ」
あっさりした返事だった。
「知ってて、使ってるんですか」
「この町の秤はみんなそうさ。文句があるならよそで買いな。──もっとも、よその秤も、みんな狂ってるがね」
量ってもらっていた客が横で笑った。
「兄さん、よそ者だな。ここの秤はどれも狂ってる。狂ってない秤を探すほうが、よっぽど難しいよ。一割やられるのは承知で買うんだ。それがこの町のやり方さ」
客は目減りした麦の袋を、当たり前のように抱えて去っていった。
俺は思わず、その客の背を追いかけそうになった。あなたは損をしている。そう教えようとして、足が止まった。客は知っていた。損を承知で、笑ってさえいた。だまされることに、すっかり慣れきっていた。俺の言葉など、この町では余計なお世話でしかない。にぎやかな市の音が、急に遠く聞こえた。この活気の下で、みんなが少しずつだまし合っている。
俺はしばらくその場に立ちつくした。
分からなかった。だます側が悪びれない。だまされる側も怒らない。両方とも狂った秤を承知で、平気で使っている。──なぜ誰もそれを直そうとしないんだろう。連合なら、狂った秤が一つ見つかっただけで大騒ぎになる。検め所が動く。しるしの帳面に照らされる。店は信用を失って、二度と客が来なくなる。だからみんな、必死で正直な秤を使う。
ここには、それがない。だから直す理由もない。
通りを歩くほどに、同じものが目についた。
油を量る桝は、底が二重になっていた。見た目の深さより、中身がずっと少ない。塩には湿った砂が混ぜてある。手にすくうと、指のあいだにざらつきが残る。干し肉は、切り口だけ良い肉で、奥は筋ばかり。布は、端だけ丁寧に織って、まんなかは目が粗い。──どの店も、どこかしらごまかしていた。
狂った秤。底上げした桝。砂を混ぜた塩。奥が筋の干し肉。端だけ上等な布。
連合なら、どれか一つでも大ごとになる品ばかりだ。だがこの町では、それが当たり前の景色だった。誰も驚かない。誰も気にしない。だます者と、だまされる者が、同じ通りで、平気で売り買いしている。
俺は市を一巡した。見れば見るほど、ごまかしが目についた。革の帯は裏側だけ薄くしてある。蜜の壺は、上澄みだけが本物で底は水あめ。乾いた豆は虫食いを下に隠して、上にきれいな粒を並べてある。真新しく見える鍋は、底の薄いところに継ぎがあたっている。
どれも俺の目には、ひと目で分かる。だが誰も俺に検めてくれとは言わない。この町の客が見るのは、安いか高いか。それだけだ。中身が本物かどうかは、はじめから問うても仕方ない。そういう顔で、みんな買い物をしていた。
フィオナさんが、低い声で言った。
「……ひどい町だな。こんなの、盗みと変わらないぞ」
「盗みは捕まるでしょう。でもここでは、これが商いなの」
ヴィオラさんは涼しい顔で通りを見ていた。手慣れた目で、どの店がどうごまかしているか、値踏みしているようだった。
「だますのが上手い者が勝つ。だまされる者が負ける。それだけの土地よ。腕っぷしと、口八丁がものを言う。品の良し悪しなんて、誰も見ちゃいない」
「あんたには、宝の山に見えるんだろうな」
フィオナさんが皮肉を言った。
「ええ、見えるわ」
ヴィオラさんは悪びれない。
「まっとうな秤を一つ持ちこむだけで、客が並ぶ。正直な品を一つ置くだけで、評判になる。──でもそれはあとの話ね。今は、ただ通り過ぎるだけ」
俺はふとこの市のにぎわいが、うそ寒く思えてきた。声も、活気も、人の多さも、みんな本物だ。だがその中で売り買いされる品だけが、どこか偽物めいている。まっとうに見えて、まっとうでない。この町ぜんたいが、狂った秤みたいだと思った。どんなににぎやかでも、どこかで底が抜けている。その底の抜けたところを、俺はもう見てしまった。見てしまった以上、たぶん素通りはできない。
俺はもう一度狂った秤を振り返った。
支点をほんの少し戻せば、あの秤はまっとうになる。造りの問題じゃない。壊れているわけでもない。直そうと思えば、すぐ直る。なのに誰も直さない。誰も直そうとしない。
なぜ、誰も直さないのか。
俺はその言葉を、しばらく考えていた。品の良し悪しを、誰も見ない土地。──ならば俺の目は、この土地では何の値打ちもないことになる。グラナで積み上げた信用も、連合公認の証しも、ここでは意味をなさない。良い品を見分けられても、それを喜ぶ客がひとりもいないのだから。
だが、と俺は思う。本当にひとりもいないのだろうか。だまされ慣れた人の中にも、心のどこかでは、だまされたくないと願う人がいるはずだ。ただ諦めているだけで。まっとうな品なんて、この世にないと思いこんでいるだけで。
その問いの本当の答えを、俺はまだ知らなかった。
翌朝、一人の女と、その子どもに会うまでは。
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