第188話 連合の果て
連合の果ては一本の石の門だった。
街道をどれだけ進んでも景色から人の気配は薄れていくばかりだった。畑は尽きた。村もとうに絶えた。乾いた野の果てにぽつんと石の門が立っている。街道の両脇に古い石柱が二本。その上へ渡した横木に連合の紋が彫ってある。長い年月の雨と風に洗われて、紋の輪郭はもう半分かすれていた。
門の脇には小さな番小屋。関守の老人がひとり退屈そうに腰かけている。
ここが連合の最後の関所だった。
俺たちの隊商が近づくと関守がゆっくり腰を上げた。荷を検めるでもない。手形を求めるでもない。ただ通る者の顔をしげしげとながめるだけだ。
「連合を出るのかね」
関守の声はしわがれていた。長いあいだ口をきいていない者の声だった。
「近ごろは出て行く者より戻ってくる者のほうが少ないよ」
その言葉の意味を、俺はすぐには飲みこめなかった。出て行った者が戻ってこない。ここを越えた先で、それだけの何かが起きるということだ。
関守は俺たちの荷を見て、それから小さく首を振った。
「立派な荷だ。……向こうじゃ、それが的になる。気をつけな。連合の紋も、ここまでしか守っちゃくれない」
俺は礼を言った。隣でフィオナさんが槍を握り直すのが分かった。
その関所の脇に、一人の男がうずくまっていた。
旅装はぼろぼろで荷はほとんどない。連合のほうを向いて、ただ座りこんでいる。帰る金も尽きたという顔だった。日に焼けて頬がこけている。何日も歩き通してきた者の足だった。
ヴィオラさんがその男に目をとめた。
「あなた、境の向こうから?」
男は力なくうなずいた。
「一山あてるつもりだった。向こうは無法だがそのぶん儲けも大きいと聞いてな。連合の織物を、ありったけ積んでいったんだ。……全部だまし取られたよ。品も、路銀も、荷車も」
男は懐から一枚の紙を取り出した。しわだらけの証文だった。
「向こうの大きな商いの証文だ。品を預ければ倍の値で買い取ると言われた。立派な判が押してある。証文まで交わした。だから信じたんだ。だが品を渡したきり、相手は宿を引き払って消えた。この紙を持って掛け合おうにも、掛け合う役所がない。……訴える先が、どこにもないんだ」
俺はその証文をのぞきこんだ。
厚ぼったい紙。赤い判。飾りの多い、いかにも立派な書き付け。一見すれば確かに本物らしい。だが──。
「……この判、木を彫ったものですね」
男がはっと顔を上げた。
「連合の判は金物の型で押します。線の縁が立って、へこみが深い。この判は縁がつぶれて、線が太い。木の判ですよ。彫り直せば誰でも同じ判を作れる。──この証文は、はじめから何の裏づけもありません。紙と、朱の色だけです」
男はしばらくその紙を見つめていた。それから力なく笑った。
「そうか。……はじめから、紙きれだったのか。おれは紙きれと引き換えに、全部渡しちまったのか」
ヴィオラさんが静かに言った。
「連合の内なら、その証文が本物かどうか、検め所が調べてくれる。判には台帳がある。偽者は罰せられる。だから判は判として通用するの。──でも境の向こうには、それがない。検め所も、台帳も、罰する役所も。立派な判に見えれば、それだけで通ってしまう。だまされたほうが間抜けだと笑われる土地よ」
フィオナさんが顔をしかめた。
「胸くそ悪い話だな」
「これが普通なの、あの先では」
ヴィオラさんは肩をすくめた。
「あなたたちが行くのは、そういう土地」
俺は男に、道中の水と干し肉を分けた。たいしたものは持っていない。だがこのまま座りこんでいたら、男は動けなくなる気がした。男は何度も頭を下げて、連合のほうへとぼとぼ歩いていった。その背中を、俺はしばらく見送った。
◇
関所を抜けると、道の先に一つの石があった。
半ば土に埋もれた古い境の石。連合の紋がかろうじて読める。ここが連合の、本当の果てだった。この石を越えれば、もう連合ではない。俺の懐の帳面も、連合公認の証しも、この先ではただの紙になる。
フィオナさんがその石をまたぐ前に足を止めた。槍の先で、半ば埋もれた紋をこつんと叩く。乾いた音がした。
「ここから先は、あたしの出番が増えそうだな」
その声は少しだけ弾んでいた。守るもののある旅は、この人の性に合うらしい。ヴィオラさんは何も言わずに前を見ていた。この人はもう何度も、この石を越えてきたのだろう。越えるたびに何かを掠め取られ、そのたびに何かを学んできた顔だ。俺はその横顔を見て、少しだけ心強く思った。知らない土地へ行く。だがひとりではない。前を張るフィオナさんがいて、道を知るヴィオラさんがいる。それだけで、乾いた道の先が、少しだけ近く見えた。
ヴィオラさんは馬車を止めずに石の横を通り過ぎた。
「さあ、ここからよ」
俺は境の石を、通り過ぎるときに一度だけ振り返った。
連合の側には、かすれた紋。街道。遠くに関所の番小屋。──二章かけて積み上げてきたものが全部、あの石の内側にある。連合公認の目利き。しるしの帳面。だまされない仕組み。そのどれもが、あの線の向こうにしかない。
境の石の外側には、ただ道が続いていた。
乾いた土の道。人の気配は薄い。ときおり朽ちた荷車の残骸が道端に転がっている。ここを通った誰かが、身ぐるみ剥がれた跡だろうか。行く手にはうっすらと煙が立っている。宿場町だろうか。だがそこには連合の紋も、検め所も、しるしの帳面もない。
俺は懐の帳面をそっと押さえた。
ここから先、この帳面には何の力もない。ヴィオラさんの言う通りだ。ただの紙きれだ。──だが、と俺は思う。グラナも、はじめは同じだった。誰も俺の目を信じなかった街で、俺はただダメなものをダメだと言い続けた。それだけで、いつのまにか帳面ができた。人がだまされなくなった。
思えばグラナも、こんなふうに始まったのかもしれない。誰も俺の言葉を聞かず、まっとうな品も見分けられず、ダメな品が平気で売られていた街。俺はそこで、ただ検品を続けた。それだけだ。信用は一日ではできない。ダメなものをダメだと言って、まっとうなものをまっとうだと言って。その小さな積み重ねが、いつのまにか帳面になった。ここでも同じことを、一から始めればいい。
力のない帳面を、もう一度力のあるものにする。
俺にできるのは、たぶんそれだけだ。難しい理屈は分からない。だがやることは、いつもと変わらない。
煙の立つほうへ、隊商はゆっくりと進んでいく。
境の向こうで最初に俺を待っていたのは、掟のない、小さな宿場町だった。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




