第187話 隊商の道
隊商の旅は、思っていたよりのんびりしていた。
ヴィオラさんの帆は、荷馬車が十を超える大所帯だ。連合の品を積み、御者や護衛や下働きを連れて、交易路をゆっくり進む。歩くより少し速いくらいの歩みだった。俺は荷馬車の端に乗せてもらって流れる景色をながめていた。
連合を出るのは、はじめてだった。追放されたときも、俺はグラナまでしか歩いていない。その先に何があるのか、地図でしか知らなかった。畑が尽き、村がまばらになり、やがて人の手の入らない野が広がっていく。進むほどに、景色から人の気配が薄れていった。ここまで来て俺はようやく実感した。俺はいま、知らない土地へ向かっているのだと。
フィオナさんは、退屈そうだった。
馬車の揺れに任せて座っているのが性に合わないらしい。ときどき降りて、馬車の横を歩く。槍を担いで、周りを警戒していた。
「のんびりしすぎだ。これじゃ、いつ着くか分からない」
「急いでも荷は速くならないわ」ヴィオラさんが涼しい顔で言った。「商いは足で稼ぐんじゃない。信用で稼ぐの。──着くころには、あなたにも分かるわ」
フィオナさんは、つまらなそうに鼻を鳴らした。
それでもフィオナさんは、夜になると少し機嫌が直る。焚き火のそばで槍を磨きながら、俺に旅の先のことを聞いてくる。無法の土地の話。強い者が弱い者を食う土地。フィオナさんの目は、そういう話をするときだけ、なぜか少し楽しそうだった。守るもののある旅は、性に合うらしい。
俺は荷馬車の車輪をふと視た。
右の後ろの一つ。輪をとめるくさびが、ゆるみかけている。このまま行けば、あと二日で外れる。
「ヴィオラさん。あの車輪、くさびがゆるんでます。直したほうがいい」
ヴィオラさんが目を細めて御者に指図した。御者が確かめて、青い顔をする。本当にゆるんでいたのだ。すぐにくさびが打ち直された。
「……ほんと、あなたの目は退屈しないわね」ヴィオラさんが苦笑した。「荷が谷底に落ちるところだったわ。命拾い」
俺はべつに、手柄のつもりはない。ただ目に入ると、視えてしまう。ゆるんだものが、ゆるんでいると。
◇
三日目の夕方、俺たちは街道沿いの宿場に着いた。
連合の内の、にぎやかな宿場だった。旅商人が行き交い、荷を売り買いしている。宿の隣には、小さな検め所があった。連合の紋。しるしの帳面。──こんな街道の宿場にまで、あの帳面は届いていた。
検め所の前で、言い争いが起きていた。
若い行商人が塩の袋を前に困り果てている。仕入れたばかりの塩に、けちがついたらしい。
「これは混ぜ物だと言われた。だが俺は、まっとうな塩として買ったんだ。売り主はもういない。どうすればいいんだ」
検め所の若い係が、困っていた。まだ経験が浅いらしい。帳面をめくっては、袋の塩とにらめっこしている。
俺はつい、足を止めた。
「……視ましょうか」
係が振り向いた。俺の連合公認の証しを見て、目を丸くする。
「あ、あなたは……」
「たまたま通りかかっただけです。ちょっと、視せてください」
俺は塩を一つまみ、手のひらに広げた。
白い粒に、わずかに灰色のものが混じっている。舌の先で確かめる。塩の辛さの奥に、ざらついた土の味。
「半分は塩です。でも半分は砂と灰。かさ増しですね。──帳面の、塩の項を見てください。『重さのわりに握ると崩れる。舌に土が残る』。この塩は、まさにそれです」
係が慌てて帳面をめくった。俺の言った項が、ちゃんと載っている。係の顔が、ぱっと明るくなった。
「……本当だ。しるしの通りだ。これは混ぜ物です」
係は行商人に正しい値を告げた。混ぜ物ぶんを引いた、本当の塩の値。行商人は損はしたが、だまされ損よりはずっとましだと、ほっとした顔をした。
「助かった。あんた、何者だ」
「ただの検品係です」
俺はそう言って、宿へ引きあげた。
その晩、宿の卓で、ヴィオラさんが酒をなめながら言った。
「見た? あれが、連合の内の景色よ」
俺は首をかしげた。
「あの係の若いのは、あなたほどの目はない。それでも帳面のしるし一つで、混ぜ物を見抜けた。──それが信用の仕組みってものよ。一人の天才がいなくても、まっとうな商いが回る。あなたが二章かけて作ったものが、こんな街道の宿場にまで根を張ってるの」
ヴィオラさんは杯を置いた。
「でもね。これが効くのも、あと少し。──明日には、連合の果てに着く。その先には検め所も、帳面も、連合の紋もない。あの係の若いのがどんなにがんばっても、混ぜ物を見抜けない土地。だまされた行商人が、泣き寝入りするしかない土地」
卓の火が、ゆらりと揺れた。
「そこへ、あなたは行くの。たった一冊の帳面と、その目だけ持って」
俺はヴィオラさんを見た。
この人は、なぜこの旅に付き合ってくれるんだろう。ふとそう思った。連合の内でもヴィオラさんの帆はいくらでも儲かる。わざわざ無法の土地まで、危ない橋を渡ることもないはずだ。
「……ヴィオラさんは、どうして」
「商機よ」ヴィオラさんはあっさり言った。「まっさらな土地。いちばん乗りで、まっとうな信用を根づかせられたら。それを敷いた帆が、どれだけ儲かると思う? ──それに」
それに、と言いかけて、ヴィオラさんは口をつぐんだ。杯の底を、しばらく見ていた。
「……いえ。なんでもないわ」
その先は言わなかった。だが俺には、なんとなく分かる気がした。ヴィオラさんも、一度は道を間違えた人だ。連合の空白を力ずくで掠め取ろうとして、痛い目を見た人だ。だからこそ、まっとうな土地を、自分の手で一から作ってみたいのかもしれない。
俺は懐の帳面をそっと押さえた。
連合の内では、この帳面はもう俺がいなくても効く。だが連合の外では、まだ何の力もない。ただの紙切れ。──ヴィオラさんの言った通りだった。
だが、と俺は思う。
グラナだって、はじめは何もなかった。俺の目も、はじめは誰にも信じてもらえなかった。それでもダメな品をダメだと言い続けたら、いつのまにか帳面ができた。宿場の係が、それで混ぜ物を見抜けるようになった。
あの若い係の、ぱっと明るくなった顔を思い出す。しるしの通りだ、と声を弾ませた顔。あれは、俺がグラナで何度も見た顔だ。だまされずにすんだ人の、ほっとした顔。──あの顔を、連合の外でも見たい。ただそれだけのことだ。難しい理屈は、俺には分からない。だがあの顔のためになら、知らない土地へでも行ける気がした。
同じことを、もう一度。連合の、外で。
明日、俺たちは境界を越える。
その先に待つものを、俺はまだ何も知らなかった。
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