第186話 見送り
旅立ちの朝は、よく晴れた。
俺たちがギルドの前に出ると、もう人が集まっていた。
思っていたよりずっと多い。坑道の連中。鍛冶場の男たち。店の主人。近所のかみさん。子どもたち。──グラナじゅうの人が、門のほうまで並んでいた。俺一人を見送るために。
なんだか面映ゆかった。俺はただダメな品をダメだと言ってきただけだ。それなのに、こんなに大勢が。
この街に流れ着いた日のことをまた思った。あのときの俺を見た人は、誰もこの男がグラナを変えるとは思わなかっただろう。俺自身も思っていなかった。ただ食いつなぐために、目の前の品を視ていただけだ。それが積もり積もって、いまこの人だかりになっている。品を一つ視るたびに、誰かの暮らしが少し確かになった。その積み重ねが、この見送りなのだと思うと、面映ゆさの奥から、じんとくるものがあった。
まず、ガロが前に出てきた。
すすで黒い手に布に包んだものを持っている。差し出されて開くと、小ぶりの短刀だった。
「はなむけだ。俺が打った。無法の土地に行くんだろ。丸腰よりましだ」
俺は短刀を視た。──いい鋼だ。北の坑道の鉄。焼きも研ぎも、寸分の隙がない。ガロが本気で打った一振りだった。
「……すごい。ガロ、これ、店に出したら相当な値がつくよ」
「あんたに値をつけられると照れるだろうが」ガロが顔をしかめた。「いいから持ってけ。あんたが視て、文句のつけようがねえ品だ。それが俺のはなむけだよ」
文句のつけようがない。俺がいつも品に言う、その言葉。それをガロははなむけにしてくれた。
俺は短刀を、大事に懐へ収めた。旅の先で、これが一本の心の支えになる気がした。
ふとあの痩せた男の短刀を思い出した。銘を偽り、鋼をごまかした、だます土地の一振り。ガロのこれは、その正反対だ。銘もいらない。飾りもいらない。ただ鋼と焼きと研ぎが、嘘をついていない。──本物とは、こういうものだ。俺はそれを一本、懐に入れて発つ。だます土地へ、本物を一つ持っていく。それはなんだか、心強いことだった。
トーロさんが、大きな手で俺の肩を叩いた。
「坑道は任せとけ。お前が戻るまで、一人も欠けさせねえ。──お前が教えてくれた通りにな」
子どもたちが、足元に集まってきた。誰かが野の花を握らせてくれる。「おじちゃん、いってらっしゃい」。俺はしゃがんで、花を受け取った。小さな手のぬくもりが、指に残った。
ドニは、店の飴をみんなに配っていた。旅立ちの祝いだと言って。ちゃっかり宣伝も兼ねている。相変わらずの商売人だった。
人だかりのなかに、見覚えのある顔がいくつもあった。はじめて俺の検めを頼みに来た、革の卸の親父。傷んだ柱を弾いてやった、大工の一家。坑道の毒を教えて命拾いした、若い掘り子。──みんな、どこかで俺の目が触れた人たちだ。その一人ひとりが、今日はここに立って、手を振ってくれている。
人ごみのあいだを、一頭の早馬が駆けてきた。
連合の紋の入った届け物だった。本部からだ。差し出されたのは、一通の文。差出人の名を見て、俺は少し息を呑んだ。
セレネさんだった。
旅立ちに間に合うようにと急ぎで寄こしたらしい。俺はその場で封を開いた。
几帳面な字が、並んでいた。
『あなたを見送りに行けないことを、許してください。組合の改革は、まだわたしの手を離せません。ですが、行けなくとも、できることはあります。──あなたが運ぶあの帳面を、連合はこれからも刷り続けます。あなたが新天地で信用の芽を蒔くなら、その種は、わたしがいくらでも送ります。あなたは一人ではありません。遠くからでもわたしたちは同じものを目指しています』
最後に、一行。
『どうか無理をしないで。あなたの目は、あなただけのものではないのですから』
俺は文をたたんだ。
胸の奥が、じんと温かくなる。この温かさが何なのか、俺にはうまく名前がつけられなかった。ただ遠い本部でセレネさんがこの旅を思ってくれている。それだけで足取りが軽くなる気がした。
フィオナさんが横で文を覗こうとして、俺が慌ててたたむと、つまらなそうに口をとがらせた。
「なんだよ。見せろよ」
「……いや。ただの、はなむけの言葉だから」
「ふうん」
フィオナさんは、それ以上聞かなかった。だがなんだか機嫌が悪そうだった。俺には、その理由もやっぱり視えなかった。品なら、あんなにはっきり視えるのに。人の心は、どうしてこう分からないんだろう。
いちばん最後に、ミレイユさんが前に出てきた。
ギルド長として、見送りの言葉を述べる。街を代表して旅の無事を祈る。落ち着いた、いつも通りの声だった。ゆうべ、あの地図を見つめていた横顔は、もうどこにもなかった。
「グラナは、ここにあります。あなたの帰る場所は、わたしが守ります。──だから心置きなく、行ってらっしゃい」
「……はい。行ってきます」
それ以上の言葉は、二人とも口にしなかった。ミレイユさんは笑っていた。無理をしているようには、もう見えない。きっとゆうべのうちに、ぜんぶ飲み込んだのだろう。長として。この街を預かる者として。
俺には、その飲み込んだものの重さが、まだ視えていなかった。
ただその笑顔だけは目に焼きついた。困ったような、それでいて確かに温かい、いつものミレイユさんの笑顔。俺はその笑顔に見送られて、街を出る。追放されたときには、誰の顔も見なかった。いまは一人ひとりの顔を、ちゃんと覚えて発てる。
◇
門を出て、しばらく歩いてから、俺は一度だけ振り返った。
丘の上から、グラナの街が見えた。
坑道のやぐら。鍛冶場の煙。連なる家々。門のところで、まだ小さく手を振っている人影。──追放されたあの日、俺は振り返らなかった。振り返っても、そこには何もなかったからだ。
いまは、違う。
振り返れば、帰る場所がある。手を振ってくれる人がいる。俺の留守を守ってくれる仲間がいる。だから安心して前を向ける。
「行くぞ、レイ」フィオナさんが言った。
「うん」
俺は、前を向いた。
交易路が、まっすぐ先へ延びている。その先に、掟のない土地。だまされ損が当たり前の土地。ダメな品をダメだと言う人が、一人もいない土地。──そこへ、しるしの帳面を背負って、俺は歩き出した。
旅が、始まった。
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