第185話 発つ支度
旅立ちの日が、三日後に決まった。
決まってしまえば、あとは早い。俺たちは支度に追われた。
まず、荷だ。俺は自分の荷物を床に広げてみた。着替えが少し。日々の道具。そして、いちばん大事なものが一つ。
しるしの帳面の写し。
セレネさんが本部で押しつけてくれた、あの分厚い束だ。品ごとの、外れを見抜くしるし。重さ。色。香り。切り口。──連合じゅうの信用を、一冊にまとめたもの。これを連合の外へ運ぶ。それが今度の旅の、いちばんの荷物だった。
布に何重にも包んで、いちばん濡れない場所へしまう。刃物より、金より、大事に扱った。
包みを持ち上げるとずしりと来た。紙の束のはずなのに、腕に食い込むほど重い。中身が重いのではない。この一冊にこもったものが重いのだ。連合が百年かけて積み上げた信用。だまされた人の涙。名誉を汚された作り手。それを取り戻してきた、二章ぶんの道のり。──ぜんぶが、この束に詰まっている気がした。たかが紙の束。されど、俺が背負うべきものだった。
思えば、追放されたときとは大違いだった。
あのころ、俺の荷物は片手で提げられるほどしかなかった。着替えと、わずかな銭。それだけ。行く先も決めず、ただ街を出た。誰も見送らなかった。備えるものも守るものも、何一つなかった。
いまは違う。
三日かけて支度をする。仲間と荷を分ける。残す街のことを、みんなで決める。──同じ「街を出る」でも、こんなにも違うものかと思った。
フィオナさんは、槍の手入れをしていた。
穂先を布で拭い、柄の握りを確かめる。無法の土地では、これが物を言うのだと言った。
「向こうは、連合みたいに衛兵はいない。掟もない。絡まれたら、自分で退けるしかない。──あんたの前は、あたしが張る。心配するな」
「うん。頼りにしてる」
フィオナさんは少し照れたように、穂先へ目を落とした。それから、俺の荷を覗き込む。
「あんたの得物は、その帳面か」
「……得物ってわけじゃないけど。まあ、そうかもしれない」
「似合ってるよ。あんたには、それがいちばん」
俺は帳面を見た。それから、槍を磨くフィオナさんを見た。
守る人と、視る人。おかしな組み合わせだと思う。だがこの二人でここまで来た。坑道の奥も、評議の間も。フィオナさんの槍が前を開き、俺の目が危ないものを避けてきた。──次は掟のない土地だ。きっとこれまでよりずっとこの組み合わせが要る。
支度のあいだ、俺はつい、目についた品を視てしまう癖が出た。
旅の保存食。干し肉の束が、台に積まれている。俺は一つ手に取って、何気なく視た。
「……これ、二つほど傷んでます」
台のそばにいたドニが、目を丸くした。
「まじか。買ったばかりだぞ」
「表は平気です。でも中の脂が、もう回りかけてる。長い旅だと、途中で腹を壊す。取り替えたほうがいい」
ドニが慌てて干し肉を引っこめた。俺はべつに検めるつもりなんてなかった。ただ目に入ると、視えてしまう。傷んだものが、傷んでいると。
フィオナさんが笑った。
「旅の支度でも、検品係は検品係だな」
そういうものらしい。俺には、これしかできない。
その晩、ミレイユさんがギルドの一室に、残る者を集めた。
留守のあいだ、この街をどう回すか。その采配だ。
坑道はトーロさん。鍛冶場はガロ。弾き帳と検め場は、主任と若い目利き。店のとりまとめはドニ。──一人ひとりに、役目が渡されていく。俺がいなくても、グラナは回る。そのための采配だった。
「検め場のことは、心配いりません」主任が言った。「あんたのしるしは、もう帳面にある。若いのも育った。あんたがいなくても、外れは見抜けます」
頼もしい言葉だった。俺が来たころこの街の検め場は俺一人だった。いまは俺がいなくても回る。──それが少しだけ寂しくて、それ以上に嬉しかった。
采配を聞きながら、俺は一人ひとりの顔を見た。
トーロさんの大きな背中。ガロの、すすで黒い手。主任の白いひげ。ドニの人のいい笑顔。若い目利きの、まっすぐな目。──みんな、俺が来てからこの街で出会った人たちだ。追放されたときには、一人も知らなかった顔。それが、こんなにも増えた。この人たちが、俺の留守を守ってくれる。だから遠くへ行ける。
ヴィオラさんは、隊商の荷を検分していた。
連合の品を、いくらか積んでいくのだという。新天地で売るのではない。だます土地に、まっとうな品の見本を持ち込むのだと言った。
「向こうの連中に、本物ってのがどんなものか、まず見せてやるの。話はそれからよ」
商人らしい算段だった。だがその目の奥に、少しだけ別の色も見えた気がした。
ヴィオラさんは、地図を広げてみせた。
連合のはずれから、交易路をどこまで行くか。どの宿場で水を足すか。どこから先が保証の効かない土地か。指でたどりながら、よどみなく説く。さすがは連合一の商人だった。旅の道筋はもう頭のなかに引かれている。
「ここまでは、まだ連合の内。わたくしの帆が効くわ」ヴィオラさんは地図の一点を叩いた。「でも、この線から先。ここを越えたら、もう誰も守ってくれない。あなたの帳面も、向こうじゃただの紙切れよ。──信用ってものが、何ひとつない土地なんだから」
ただの紙切れ。俺は懐の帳面を、そっと押さえた。そんなことはない、と言い返したかった。だが越えたことのない土地のことを俺はまだ何も知らなかった。
ミレイユさんが、最後に俺を見た。
「あなたの帰る場所は、わたしが守ります。だから、安心して行ってきてください」
「……はい。ありがとうございます」
その声がどこか無理をしているようにも聞こえた。だが俺にはやっぱりその理由が視えなかった。
◇
支度が、ひととおり終わった。
荷は、まとまった。役目は、分けた。あとは発つだけだ。
俺は最後にもう一度、しるしの帳面の写しを確かめた。布に包み直し、荷のいちばん奥へ。連合の信用を、連合の外へ。──こんな大きな荷物を背負う日が来るなんて、追放されたあの日には、思いもしなかった。
明日、俺たちは発つ。
街のみんなが、見送りに出てくれるという。追放された日には、誰も見送らなかった。明日は、大勢が見送ってくれる。顔なじみが名を呼んで手を振り、行ってこいと背中を押してくれる。
その違いを、俺はまだうまく飲み込めずにいた。
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