第182話 旅立ちの相談
旅の話は日を追って、本物になっていった。
ヴィオラさんは隊商を止めて、しばらくグラナに腰を据えた。交易路の先をもっと詳しく調べてくると言って、伝手をたどって商人を集める。話は集まるほどに具体になっていった。連合の外れの、そのまた先。無法の土地。だが、豊かな土地でもあるという。手つかずの鉱脈。まだ誰も値をつけていない特産。──そして、その奥の、大きな盟の影。
ある晩、ミレイユさんがギルドの一室にみんなを集めた。
旅の相談だった。
俺。フィオナさん。トーロさん。ガロ。主任。それにヴィオラさん。テーブルを囲む顔ぶれは、いつのまにかずいぶん頼もしくなっていた。
思えば、はじめは俺と数人の職人だけのギルドだった。それがいまはどうだ。坑道を仕切るトーロさん。連合一の商人ヴィオラさん。街を回すミレイユさん。──小さな検品場が、連合を動かす街になっていた。
ミレイユさんが最初に口を開いた。
「先にはっきりさせておきたいことがあります。──グラナは、動かしません。誰が行くことになっても、この街はここに残します」
きっぱりとした声だった。
「グラナは、みんなの帰る場所です。坑道があって、鍛冶場があって、弾き帳があって。連合じゅうの信用の、いちばんの土台になった街です。ここを空にして、みんなで新天地へ、というのはなしです。──行く者と、残って街を守る者を、分けます」
誰も異は唱えなかった。道理だった。
グラナは、もう俺一人のものじゃない。ここで暮らす人がいる。坑道で食べている家族がいる。この街を放り出して身軽に旅立てる身分では、とっくになくなっていた。
「まず、レイさん」
ミレイユさんが俺を見た。
「あなたの目がなければ、新天地の話は始まりません。……行ってもらうことになると思います」
「はい」俺はうなずいた。「あの土地には、ダメな品をダメだと言う人がいません。俺の目が役に立つなら、行きます」
「あたしは行く」フィオナさんが間髪入れずに言った。「レイの前衛は、あたしの仕事だ。無法の土地なら、なおさら要る。決まりだ」
もう三回どころではなかった。誰も止めなかった。
ヴィオラさんが指で地図をとんと叩いた。
「わたくしは帆を出すわ。連合と新天地を、隊商でつなぐ。ただし住みつくつもりはない。あくまで、商いの窓口として。──行き来する荷と報せは、わたくしの帆が運ぶ。それがいちばん向いてる」
トーロさんは坑道に残ると言った。グラナの坑道を、留守のあいだも回さねばならない。ガロも主任も、街に残る側だった。鍛冶場と、弾き帳。グラナの背骨は、動かせない。
役割が少しずつ決まっていく。行く者。残る者。つなぐ者。──だが、一人だけ、名の挙がらない人がいた。
「……セレネさんは」
俺が言いかけると、ミレイユさんが静かに首を振った。
「セレネさんは、本部を離れられません。組合の改革は、始まったばかり。あの人が抜ければ、また元へ戻ってしまう。──文で、相談はします。でも、いっしょに行くことは、たぶん、できない」
そうか、と思った。
セレネさんは、組合を変える大きな仕事の真ん中にいる。俺が新天地へ行っても、あの人は本部に残る。同じものを目指して、別々の場所で。井戸端で聞いたあの寂しげな声を、思い出した。離れていく、と言っていた。こういうことだったのかもしれない。
相談は夜更けまで続いた。
誰が、いつ、どう発つか。細かいことは、まだ何も決まらない。だが、大きな形は見えてきた。グラナを母体に残し、俺とフィオナさんが先に立ち、ヴィオラの帆が道をつなぐ。──新天地へ。
ただ一人、ミレイユさんだけが、その形のなかで自分の居場所を口にしなかった。
◇
みんなが引きあげたあと、ミレイユは一人、ギルドの一室に残った。
卓の上の古い地図を指でなぞる。グラナ。北の坑道。そして、白い空白の土地。
行きたい、と思った。
思ってから自分でも驚いた。街を預かる長が、街を捨てて旅に出たいなど。許されることではない。それでも胸の底から、その思いは湧いてきた。あの人が行く土地を、この目で見たい。あの人の隣で、また一から街を作りたい。──はじめて、あの人をギルドに迎えたときのように。
あれは、寒い日だった。
行くあてのない痩せた検品係が、ギルドの戸を叩いた。どこも雇わない男だった。鑑定しかできない、役立たずだと。ミレイユは、その日の給金にも困っていたギルドで、それでもこの男を雇った。なぜだか、放っておけなかった。──その男がいま、連合公認の目利きになった。街を生き返らせた。そして今度は、もっと遠くへ行こうとしている。
この街の何もかもに、あの人の手が触れている。腐りかけの梁を弾いた手。死んだ種を見抜いた目。坑道の毒を察して、みんなを生かした声。新しい家。増えた店先。子どもの笑い声。──そのどれもが、あの人が来てから生まれたものだ。なのに当のあの人は、自分が何をしたのかいまも半分も分かっていない。ただ目の前の品を視てきただけだと思っている。
自分はこの街に残る。
それが長の務めだ。グラナは、みんなの帰る場所。誰かが守らねばならない。それができるのは、自分しかいない。分かっている。分かっているのに。
ミレイユは地図の白い空白に、そっと手を置いた。
「……行かないで、とは、言えないな」
小さな声だった。誰も聞いていなかった。
言えるはずがなかった。あの人は、放っておけないのだ。だまされ損をして泣く人を。ダメな品を、ダメだと言う人のいない土地を。それは、かつて自分があの人を放っておけなかったのと同じことだった。
ミレイユはしばらく地図を見ていた。それから、灯りを消した。
◇
次の朝、俺はミレイユさんに一つ聞いてみた。
ゆうべ、ずっと何か言いたそうにしていた。気のせいかもしれない。だが気になった。
「ミレイユさんは、グラナに残るんですよね。……それで、いいんですか」
ミレイユさんは少し目を見開いた。それから、いつもの少し苦労人めいた笑顔に戻った。
「いいんです。これがわたしの役目ですから。──あなたはあなたの役目を果たしてきて。わたしは、あなたの帰る場所を守ってます」
その笑顔がどこか無理をしているように見えた。だが俺には、その理由がやっぱり視えなかった。
品なら、視えるのに。人の心は、どうしてこう、視えないんだろう。
旅立ちの日は、まだ決まっていない。だがその前に、俺には一つしておきたいことがある気がした。──この街を、ちゃんと目に焼きつけておくこと。俺が、帰ってくる場所を。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




