第183話 帰る場所
朝の光が、坑道のほうから差してくる。
俺は毎朝、いちばんに起きる。もう癖になっていた。ギルドの戸を開けて、冷たい空気を吸い込む。それから街をひと回りするのが、この数年の日課だ。
旅立ちの日は、まだ決まっていない。それでも近いことは分かっていた。だから今朝は、いつもより念入りに歩こうと決めた。この街を、隅から隅まで目に焼きつけておきたかったのだ。
まず向かうのは、検め場だった。
主任がもう来ていた。白髪の、岩みたいな男。元はバルロ商会で弾き帳をつけていた人だ。商会が瓦解したあと、行き場をなくしてグラナに流れ着いた。いまはこの街の検め場を、朝いちばんから回している。
「早いですね」
「あんたこそ」
短いやり取り。それで足りた。主任の前には今日の荷が並んでいた。よその街から届いた品だ。連合じゅうから、グラナの検めを通してくれと集まってくる。
俺は一つ手に取った。干した薬草の束。
視るまでもなかった。いい品だ。日の当て方も、しまい方も、手を抜いていない。
「これはいい。上等です」
「へえ」
主任が弾き帳に印をつける。若い目利きが横で覗き込んだ。ここ半年で育った、銀の徽章の若者だ。俺の視方を"しるし"にほどいて、少しずつ覚えている。
「香りですか」
「うん。あと、葉の裏の色。蒸れたやつは、ここが黒ずむ」
「……なるほど」
若者が帳面に書きつける。俺が一人で視ていたものが、いまは何人もの手に渡っていく。おかしなものだった。
次に手に取ったのは、革の束だった。よその街の卸から届いたものだ。表はきれいになめしてある。だが指で裏を返すと、端のほうに薄い染みが浮いていた。
「……ダメですね、これ」
俺は静かに言った。
「表はいい。でも裏が湿気を吸ってます。ここから傷む。半分は使い物になりません」
主任が弾き帳の印を書き換えた。若い目利きが、俺のなぞった指の跡を食い入るように見ている。
「裏の、この色ですか」
「うん。表だけ見てちゃ分からない。裏を返す。それだけのことだよ」
それだけのこと。俺にはいつもそう思える。だがその「それだけ」が、この街の信用を支えているのだと、いつだったかミレイユさんに言われた。
検め場を出て、鍛冶場へ回る。
ガロが炉に向かっていた。真っ赤な鉄を打っている。俺に気づくと、打つ手を止めて顔を上げた。
「よう検品係。朝から見回りか」
「うん。……いい鉄だね、それ」
「北の坑道のだ。トーロんとこの。粘りが違う」
ガロが鉄を掲げてみせる。俺が来たばかりのころ、ガロの鍛冶場はなまくら石の混じった鉄で苦労していた。いまは違う。トーロさんの坑道から、いい鉄が上がってくる。ガロの腕も、その鉄に応えて上がった。
この鍛冶場の鉄を、いまや連合じゅうの鍛冶が欲しがる。ヴィオラさんの帆が、掘るそばから運んでいく。
「なあ」ガロがふいに言った。「旅に出るんだってな」
「……まだ、決まってないよ」
「決まってるようなもんだろ。行ってこい。ここは俺たちが回す。あんたの戻る場所は、ちゃんと残しとく」
ガロはそれだけ言うと、また炉に向き直った。真っ赤な鉄。打つ音。それが返事だった。
昼近く、トーロさんが坑道から下りてきた。
肩に粉をかぶって、大きな体を揺らして歩いてくる。俺を見つけると、太い声で笑った。
「レイ! ちょうどいい。奥の岩を視てくれ。妙な筋が入ってる」
俺はついていって、坑道の入口の岩を視た。危ない筋ではない。ただの水の通り道だ。崩れる心配はない。
「大丈夫。ここは崩れません」
「そうか。お前がそう言うなら、安心だ」
トーロさんは、俺の目を一度も疑ったことがない。坑道の毒も、崩れも、いつも俺の印を信じて、その通りに動く。だからこの坑道では、まだ一人も欠けていない。
それが俺には、何より嬉しかった。
街の広場では、ドニが新しい店の棚を並べていた。
よその街から移り住んできた小間物屋だ。グラナの検めを通った品なら安心して買えると、客がひっきりなしに来る。子どもが数人、店先の飴を覗き込んでいた。
その飴も、たぶん俺が視た品だ。──いや、もう俺が視なくてもいい。主任と若い目利きが、ちゃんと視ている。俺がいなくても、この街の検めは回る。
子どもの一人が、俺に気づいて手を振った。
「けんぴんがかりのおじちゃん!」
「……おじちゃんか」
まだそんな歳のつもりでもなかったが。まあ、子どもから見ればそうなのだろう。
ドニが顔を上げて、こちらへ手を挙げた。棚の奥から、瓶を一つ持ってくる。
「レイさん、これ。この前見てもらった蜜だよ。おかげで良い値がついた。持ってってくれ。旅の甘味にちょうどいい」
「……もらっていいの」
「あんたに視てもらった品だ。あんたが持つのがいちばん似合う」
俺は瓶を受け取った。ずしりと重い。ドニの店は、来たころは半分空だった棚が、いまは品で埋まっている。この街の店先は、どこもそうだ。少しずつ、確かなもので満ちていった。
◇
夕暮れ、俺はギルドの屋根に登った。
グラナの街が一望できる。坑道の灯り。鍛冶場の煙。店先の明かり。夕餉の匂い。子どもを呼ぶ声。──そのどれもが、俺が来てから生まれたものだと、ミレイユさんは言った。俺にはまだ、半分も実感がない。
広場のまんなかに、追放された日のことが浮かんだ。
メルダートの、会頭の部屋。新しい鑑定士を雇ったから、お前はいらないと言われた。検品なんて誰にでもできる、と。俺は何も言い返せなかった。荷物をまとめて、街を出た。行くあてもなかった。ただ足の向くまま歩いて、たまたま流れ着いたのが、このグラナだ。
あのころの俺は、自分の目に何の値打ちもないと思っていた。鑑定しかできない。ダメな品をダメだと言うだけ。そんなもの、誰の役にも立たないと。
なのに、どうだ。
いまこの街には、俺の目を信じてくれる人がいる。俺の視方を覚えようとする若者がいる。俺が視た品を、安心して買う客がいる。俺が「大丈夫」と言った坑道で、誰も欠けずに働いている。
検品なんて誰にでもできる。──そう言われた目が、街を一つ生き返らせた。
おかしなものだ。俺は何も変わっていない。ただ目の前の品を視て、ダメなものをダメだと言ってきただけ。それだけのことが、こんなにも遠くまで来た。
ここは、俺の帰る場所だ。
追放されたときは、帰る場所なんて一つもなかった。いまは、ある。だから安心して遠くへ行ける。どんなに遠い土地へ行っても、ここへ帰ってこられる。
その帰る場所を、目に焼きつけた。坑道の灯り。鍛冶場の煙。店先の明かり。──ぜんぶ。
明日、連合から使いが来るという。組合の、けじめの話らしい。旅立ちの前に、片づけておくことがあるのだと、ミレイユさんが言っていた。
扉の向こうへ行く前に、もう一つ。俺には見届けねばならないものが、残っていた。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




