第178話 引き継ぐ天秤
メルダートの朝は鐘の音から始まる。
評議の間の高い窓から、白い光が差していた。部屋の中ほどに、古い天秤の像が据えられている。片手に事実の皿。片手に秩序の皿。石で彫られた女神が、二つの皿を静かに掲げていた。
ロデリック理事は誰よりも早くその前に立っていた。
四十年、この像を見上げて生きてきた。まだ若い査定役だったころからだ。天秤は長いあいだ傾いたままだった。秩序の皿が重かった。事実に目をつぶり、それを秩序と呼んできた。二十年の嘘は、その傾きのなかで厚みを増していった。
いまはもう、傾いていない。
産地の偽りは表に出た。判を汚した長老は静かに退いた。被害を受けた者へ、一つずつ正しい値が戻されている。天秤はようやく、水平を取り戻していた。
ここまで来た。ずいぶんかかった。
あの評議の日、ロデリックは自らの古い名を人前にさらした。若き日、上役の格づけに産地を問わず名を連ねた、たった一度の過ち。それを明かせば、四十年築いた信は一夜で崩れる。怖くなかったと言えば嘘になる。だが明かさねば、嘘は永遠に嘘のままだった。長老レーヴェは抗弁せず退き、蔵の奥の控えの鍵を自ら差し出した。その鍵で、二十年ぶんの書き換えの帳が開いた。連合じゅうの被害を受けた者へ、いま一人ずつ償いが回っている。遠い街の老女の、珊瑚と偽られた形見の首飾りにも。──壁は崩れた。だが崩れた壁の跡に、まだ家は建っていない。建てるのは、これからだ。
背後で扉が開いた。
テオが入ってくる。銅の徽章を胸に、腕いっぱいの帳面を抱えていた。改革の骨づくりに、このひと月、寝る間も惜しんできた若者だ。そのうしろからセレネが続いた。銀の徽章。父によく似た、まっすぐな目をしている。
「父上。お呼びと聞きました」
「ああ」
ロデリックは天秤の像から目を離さずに言った。
「わしは、この評議の長を退こうと思う」
二人が息を呑むのが分かった。
「なぜです」テオが一歩前へ出た。「改革はまだ始まったばかりだ。あなたの名がなければ、守旧の残党がまた息を吹き返す」
「だからだ」
ロデリックは静かに遮った。
「わしの名で改革を通せば、これは"古い理事のやったこと"になる。わしが去れば、また元へ戻る。そうはいかん。この改革は、次のお前たちのものにせねばならん。──わしはもう、天秤を傾けてきた側の男だ。新しい天秤は、傾けなかった者が担うべきだ」
テオは口をつぐんだ。
言い返せなかったのだろう。ロデリックの名は、産地偽装の帳面のなかにも一度だけ並んでいる。若き日の、たった一度の名連ね。それを自ら評議で明かした。だからこそ改革が通った。だが同じ理由で、この老人はもう旗を掲げる者にはなれない。旗は、汚れのない手が掲げねばならなかった。
この一月、テオは連合じゅうを走り回っていた。しるしの帳面を各地の支部へ配る。外れを見抜く目の育て方を書き留める。徽章持ちと目利きの役割を、一つずつ制度に組み込んでいく。セレネはその隣で、格式でしか品を見てこなかった古参たちを、一人ずつ説いて回った。徽章を捨てるのではない。徽章に、中身を持たせるのだと。──二人は若い。だが若さこそ、この改革には要るものだった。古い者はどうしても、古いやり方へ戻りたがる。ロデリック自身が、その証だった。
セレネは、何も言わなかった。
ただ懐から、小さなものを取り出した。銀の腕輪だった。母の形見の。父が一晩握りしめ、娘の手に返した品だ。
その留め金を、セレネは父に見せた。
「直してもらいました。本部の、腕のいい銀細工師に」
ロデリックは腕輪を受け取った。留め金に目を凝らす。かつてあのグラナの検品係が視抜いた、目に見えないヒビ。直すなら今だと言った、あのヒビが。もう、なかった。きれいに継がれている。言われなければ、どこが割れていたのかも分からなかった。
「……よく、直ったな」
「ええ。割れる前に直せました。ぎりぎりで」
父と娘は、しばらく腕輪を見ていた。
見えないヒビを抱えたまま光っているより、一度あらためて正しく直したほうがいい。あの夜、父はそう言った。組合のヒビも同じだと。──いま、腕輪のヒビは継がれた。組合のヒビも、継がれようとしている。遅すぎたのかもしれない。だが、間に合った。
「父上は、間違っていませんでした」
セレネが言った。
「若いころ、秩序を選んだことを、ずっと悔いておられた。でも、あのころ連合はもろかった。組合の判だけが背骨だった。あなたが背骨を折らなかったから、連合はここまで保った。──折らずに保った背骨を、いま、正しく継ぎ直す。それがわたしたちの番です」
ロデリックは、娘の顔を見た。
いつのまに、こんなことを言うようになったのか。組合の格式にしがみつき、無資格の検品係を裁きに向かった、あの気の強い娘が。徽章を格式の証から、品を視る証へ。内側から作り替える側へ。──娘は、変わった。いや、育った。父の知らぬところで。
目の奥が、熱くなった。理事は、それを娘に見せなかった。
セレネが腕輪を、そっと手首にはめた。
初めてだった。母の形見を、娘が身につけたのは。ロデリックはそれを見て、ようやく肩の荷が下りた気がした。娘はもう、大丈夫だ。この銀の徽章と、この腕輪を持って、組合を新しく組み替えていく。自分の役目は、もう終わりに近い。
退いたあとは、一人の老人に戻るだけだ。丘裏の屋敷で、庭の木の世話でもして暮らせばいい。ときおり評議の様子を、娘から聞く。うまくいっていると聞けば、それでいい。しくじったと聞けば、老いた知恵を貸すこともあろう。だが決めるのはもう自分ではない。次の者たちだ。──それが引き継ぐということだった。天秤は、握りしめるものではない。次の手へ、そっと渡すものだ。
「……一つだけ、最後の仕事が残っている」
ロデリックは天秤の像を見上げた。
「この改革の扉を、そもそも開けたのは誰か。徽章も持たぬ、一人の検品係だ。組合はあの男を、まがい物と切り捨てた。──その始末を、つけねばならん」
テオとセレネが顔を上げた。
徽章なき目利きを、組合はどう扱うのか。連合はどう認めるのか。四十年、格式を守り抜いてきた老いた理事が、最後に手をつけるのは、その古い壁だった。
「あの検品係を、連合の場へ呼べ。ザネッティ殿にも、モラッティ殿にも立ち会ってもらう。──組合の長として、わしがけじめをつける最後の一件だ」
セレネの手首で、継ぎ直された腕輪が、白い光を受けて静かに光っていた。
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