第177話 道化の幕
その男の噂を聞いたのは、旅の荷方からだった。
グラナの宿場に隊商が一つ立ち寄っていた。ヴィオラさんの帆の下で動く隊商だ。しるしの帳面を連合じゅうの市へ運んでいる。その若い荷方が街道で拾った話を、土産みたいに置いていった。
東のはずれの小さな市に、おかしな年寄りがいるという。金の徽章をちらつかせ、元は組合の査定長だったと名乗る。品を視てやると言っては銭を取る。だがその見立てがまるで当たらないのだと、荷方は笑った。
俺はその話を、なんとなく最後まで聞いた。
金の徽章。元の査定長。銭を取る鑑定。──心当たりが一つだけあった。
◇
東のはずれの市は、小さかった。
オズワルド・ケインは、その朝もいちばん端の一角に古びた机を出していた。上等だった長衣は、裾がすり切れている。それでも金の徽章だけは毎朝きれいに磨いていた。胸のいちばん目立つところに留めて。それがこの男に残された、ただ一つの看板だった。
メルダートの本部を追われて、もうふた月になる。査定長の名を返した。評議の間を追われた。飼い殺しの隅からさえ、はじき出された。行くあてはなかった。徽章を持つ者を迎える街を探して東へ東へと流れ、たどり着いたのがこの名もない市だった。
誰もオズを知らなかった。
それはむしろ好都合だった。ここでなら、まだ査定長で通る。金の徽章は本物だ。組合が返せと言わなかった、たった一つの持ち物。それを胸に、オズは机の前へ座って客を待った。
「ごめんよ。これ、いい壺かね」
昼近く、日に焼けた商人が一つの壺を抱えてきた。釉薬のかかった、なかなかの焼き物だ。底に名の知れた窯の印が押してある。
オズの目が光った。久しく忘れていた、査定長の目だった。
「ほう。これは南の窯の品だな。この印、まず本物だ。格でいえば上の下。悪くない。悪くないぞ」
もったいぶって壺を掲げる。透かして見る。指ではじく。いかにも査定長らしい所作だった。長年、この所作で人を平伏させてきた。窯の印を読み、格を告げる。それがオズの鑑定のすべてだった。中身がどうかは、見ない。見なくても、格式が値を決めた。かつては、そうだった。
「銅貨三枚だ。相場より安く見てやろう」
商人が財布に手をかけた。そのときだった。
「その壺、やめときな」
横から若い声が割り込んだ。
行商らしい身なりの青年だった。背に、擦り切れた帳面を一冊背負っている。ヴィオラの隊商が配って回っている、しるしの帳面だった。
青年は壺をひょいと持ち上げた。ひっくり返す。口のふちを日にかざす。
「ここ、見なよ。釉薬の切り口。上等な南の窯なら切り口まで白く澄んでる。だがこいつはにごってる。灰色がかってる。安い土に上の釉薬をかぶせただけの品だ。窯の印だけ本物で、中身は別もんさ」
こつ、と青年が壺のふちを爪ではじいた。にぶい音がした。
「音も、ほら。上等ならもっと澄んで返る。こいつはどこかにヒビが入ってる。水を張ったら、じきに染みてくるぜ」
商人がのぞき込んだ。切り口のにごり。にぶい音。言われてみれば、たしかにそうだった。
「……あんた、詳しいな。目利きかい」
「まさか。おれはただの行商だよ」青年は帳面をぽんと叩いた。「これに書いてあるとおり視ただけさ。切り口の色。はじいた音。誰でもたどれる。連合じゅうで、いま広まってる見方だ。もとはグラナの目利きの視方をほどいたものらしいけどな」
オズの顔から血の気が引いた。
グラナの目利き。あの検品係。徽章も持たぬ、まがい物と切り捨てたはずの男。その男の視方が、こんな市のはずれの、こんな青二才の背中にまで届いていた。
「で、でたらめを言うな! わしは組合の査定長だぞ! 金の徽章が目に入らんのか!」
オズは立ち上がった。胸の徽章を突き出す。かつて、その一挙手で広間が静まった徽章だった。
だが青年は、きょとんとしていた。
「徽章? へえ、りっぱだね。──で、それが何か関わりあるのかい。おれが言ってんのは、この壺の切り口の色の話だぜ」
悪気は、まるでなかった。それがかえって、こたえた。
この青年にとって、金の徽章はただの飾りだった。品の外れとは、何の関わりもない。かつて連合を平伏させた格式が、いまや市のはずれの行商の目にすら、留まらなかった。
商人は壺を置いて、青年に頭を下げて去っていった。銅貨は、オズの机に一枚も落ちなかった。
オズは机の前へ、崩れるように座り込んだ。磨いたばかりの金の徽章が、日を受けて、むなしく光っていた。
◇
俺はその話を聞いて、少し妙な心持ちになった。
いい気味だとは、思わなかった。すっとした、とも思わなかった。ただ、なんだか、うすら寒いものが胸に残った。
オズさん。あの人は最後まで、品を見ていなかった。窯の印。格の上下。徽章の重み。人の目に映る飾りばかりを見て、品そのものを一度も視ていなかった。だから外した。市のはずれでさえ、外した。
会頭のことを、ふと思い出した。あの人も俺を切り捨てた。まがい物だと決めつけた。けれど最後には、俺の目の値打ちに手遅れながら気づいた。気づいて去っていった。人の温度が、あの人にはあった。
オズさんには、それさえなかったのかもしれない。切られたことに腹を立て、上役を道連れにしようとして、我が身に返って果てた。最後まで飾りにしがみついたまま。
根を張る者がいる。種を運ぶ者がいる。そして、どこにも根を下ろせないまま、飾りを磨いて流れていく者もいる。主任があの晩、窓の外に見ていたのは、たぶん、こういう幕だったのだ。
哀れだとは思う。だが俺には、どうしてやることもできない。
旅の荷方は次の朝、東へ発っていった。オズさんの市も、その先にあるという。しるしの帳面は、これからも街道を運ばれていく。あの市にもまた届くだろう。品を、飾りでなく中身で視る、その視方が。
道化の幕は、静かに下りた。
だが本部では、別の幕が上がろうとしていた。理事がひとつの決心を固めたという報せが、その隊商にまぎれて、届いていた。
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