第175話 沢の先
グラナへ帰ったのは、久しぶりだった。
本部での日々は長かった。評議。検め。改革の骨づくり。ずっと気を張っていた。見慣れた街の門をくぐると、肩の力がふっと抜けた。ガロの鍛冶場の煙。ドニの店先の呼び声。何も変わっていない。それがうれしかった。
門番が手を上げた。すれ違う荷方が会釈する。パン屋の女房が焼きたてを一つ握らせてくれた。半年前、俺は名も知られぬ検品係だった。いまは街の誰もが顔を覚えている。追い出された街を一つ、俺は持っている。帰ってくる街を、もう一つ持っている。それは悪くない心持ちだった。
だが変わったこともあった。
ギルドの裏手。荷車がいつもより多く並んでいる。北の坑道から運ばれてきた鉱石だった。以前よりずっと数が増えている。
トーロが汗を拭いながら出迎えた。
「おかえり。留守のあいだも、坑道は掘り進めたぞ。──見てくれ、この量だ」
荷車には、黒く光る鉱石が山と積まれていた。坑夫の数も増えたという。前は数人で細々と掘っていた坑道が、いまや二十人からの働き手を養っている。グラナで暮らす者が、また増えた。坑道が、街を養いはじめていた。
隠し階層は、さらに奥へ延びていた。
トーロたちが、留守のあいだも探索を続けていた。危ない横穴には、俺が前に印をつけておいた。崩れやすい床。毒のたまる窪み。それを避けて、安全なところだけを掘る。無理はしない。それがグラナのやり方だった。
奥へ進むほど、鉄の筋は太くなった。掘っても掘っても、尽きる気配がない。トーロたちは、無理をしない範囲で少しずつ間口を広げていた。危ないと俺が言えば、そこはすぐに閉じる。宝より、命が先。その約束を、みんなが守っていた。
俺は運ばれてきた鉱石を、一つずつ視た。
いい鉄だ。亀の沢のなまくら石とは違う粘りのある鉄。剣にすれば折れにくい。叩けば澄んだ音が返る。中に、余計な混じり気がない。これだけの鉄は、そうそう採れるものじゃない。連合じゅうの鍛冶が欲しがるはずだ。ヴィオラさんの帆なら、いくらでも捌けると言っていた。北の坑道の鉄が、しるしの帳面といっしょに、連合を回っていく。
グラナの探索は、もう街だけのものじゃなかった。連合の資源を支える、一つの柱になろうとしていた。
それでも、出どころは秘めたままだ。北の坑道の在りかは、買い手には「東の山で採れた」と伝えてある。良い鉱脈が知れれば、よからぬ者が群がる。商会のころ、亀の沢を狙われかけた。あの用心は、いまも続けていた。
フィオナさんが、奥から何かを抱えてきた。
大きな甲殻だった。坑道の奥にすむ岩喰い虫のもの。硬くて、槍もはじく。厄介な魔物だ。
「これ、レイのおかげで獲れたんだよ」フィオナさんが得意げに言った。「あんたが前に、こいつの殻の継ぎ目を教えてくれたろ。首の下の、やわらかいとこ。あそこを突けって。──そのとおりにしたら、一発だった」
「無事でよかったです」
「無事もなにも。あんたの言うとおりにしただけ。あたしは槍を刺しただけだよ」
フィオナさんは笑ったが、俺はそうは思わなかった。継ぎ目を知っていても、そこを突けるとはかぎらない。硬い殻の魔物を相手に、一撃で急所を貫く。それはフィオナさんの腕だ。俺はどこを突けばいいかを言うだけ。突くのは、いつだって彼女たちだった。
一度、奥で崩れの兆しがあったという。天井から、細かい砂がこぼれ始めた。俺が前に「ここは長居するな」と印をつけた場所の、すぐ手前だった。フィオナさんたちは、すぐに引いた。誰も欠けなかった。俺はそこにいなかった。それでも印は役に立っていた。視ておいたものが、留守のあいだも、みんなを守っていた。
その甲殻を視ていて、俺は妙なことに気づいた。
岩喰い虫は本来もっと深いところにすむ魔物だ。こんな浅い階層にいるのは、おかしい。まるで、もっと奥の、もっと深いところから、押し出されてきたみたいだった。
「トーロさん。この虫、どこから来たんでしょうね」
「さあな。ただ奥の奥に、でかい空洞があるって話は、前から坑夫のあいだにある。この坑道の、ずっと先。山をいくつも越えた、地の底だ。──だがそこまでは、まだ誰も行っちゃいない」
山をいくつも越えた、地の底。
誰も行ったことのない土地。
俺はその言葉を胸の中でくり返した。誰も行ったことのない土地。品を視る目には、まるで縁のない話のはずだった。なのに、なぜか耳に残った。
◇
その晩、ミレイユさんが古い地図を広げた。
グラナの北。坑道の走る山なみ。その、さらに向こう。地図は、途中で白くなっていた。誰も描き足せなかった、空白の土地だった。
「ヴィオラさんが言ってた」ミレイユさんが、白い部分を指でなぞった。「交易路の、ずっと先。連合の誰も手をつけていない土地に、大きな鉱脈が眠ってるって噂があるって。──眉唾だと思ってた。でも」
でも坑道の鉄は、その方角へ延びている。
亀の沢の鉱脈も、北の坑道も、たぶん、もっと大きな何かの、端っこにすぎない。連合の中には、もう俺たちの相手はいない。組合は変わった。信用の空白も、埋まった。──だが地図の白いところには、まだ誰も知らない何かがある。
ミレイユさんはしばらく地図を見ていた。
「……グラナは、大きくなりました。あなたが来てから。追放されてきた検品係が、いまや連合公認の目利きです。街は、もう食うに困らない」
その声はうれしそうで、少しだけ寂しそうだった。
「だからこそ、思うんです。ここが、終わりなのかなって。それとも──まだ、先があるのかなって」
部屋の隅でフィオナさんが槍の手入れをしていた。地図の話に、耳だけは向けているようだった。
「行くなら、あたしも行くからな」
ぽつりと、そう言った。誰にともなく。ミレイユさんがちょっと笑った。「まだ誰も行くとは言ってません」。「言う前に言っといただけ」。フィオナさんは、そっぽを向いた。
俺はその白い空白を見つめた。
沢の先。坑道の先。連合の、先。
まだ、行ったことのない場所だ。何があるのかも分からない。──だけどなぜだろう。その白いところを見ていると、胸の奥が、少しだけ、ざわついた。
追放されたときは、行く先なんて選べなかった。ただ流れ着いただけだ。だがいまは違う。行こうと思えば、どこへでも行ける。何もない土地に、また一から、ダメな品をダメだと言いに行く。──そんな暮らしも、あるのかもしれない。
旅の話が、始まろうとしていた。
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