第174話 帆と天秤
ヴィオラ・ダンスクは、二日後に本部へ来た。
文を送ると、すぐに発ったという。相変わらず足の速い人だった。連合じゅうに隊商の網を張る大商人。その足の速さが、そのまま商いの速さだった。
半年前、この足はグラナの客をさらっていく脅威だった。いまは違う。同じ帆が、こちらの味方として港に着く。時というのは、分からないものだ。
本部の一室。テオさん。セレネさん。それにミレイユさんも、グラナから駆けつけていた。連合をまたぐ話になる。ミレイユさんの出番だった。
ヴィオラは椅子に腰を下ろすと、開口一番に言った。
「組合が変わったそうね。徽章の判に、外れを見抜く目を組み合わせる。──それで、わたくしを呼んだ。足がいるんでしょう」
話が早かった。
「察しがいいですね」ミレイユさんが苦笑した。
「察しじゃないわ。当たり前の話。──いい目利きの決まりを作っても、それを各地へ運べなければ絵に描いた餅。運ぶ足は、連合じゅうを回るわたくしの隊商がいちばん向いてる。違う?」
違わなかった。
だがミレイユさんは足の速さに飲まれなかった。
「運ぶ足は、ダンスクさんが一番。それは認めます。でも運ぶ中身の決まりは、こちらが握らせてもらう。しるしの帳面も、目利きの育て方も。──足は借りますけど、手綱は渡しません」
ヴィオラが、にやりとした。
「いいわね。そう来なくちゃ、組む甲斐がない」
半年前、横取りの申し出を断ったときと同じやり取りだった。ただ今度は敵としてでなく、組む相手として交わされていた。
しるしを綴った帳面。育てた目利き。新しい保証の証。それを、ヴィオラの隊商が各地の組合支部へ運ぶ。人を回し、教えて歩く。連合公認の、新しい保証の仕組み。その足に、ダンスクの帆を使う。
やり方は、こうだ。隊商がしるしの帳面を積んで各地の支部を回る。ついでに、育った目利きを一人か二人、荷に同乗させる。着いた先で、その土地の徽章持ちにしるしを教える。何日か留まって、根づかせて、また次の街へ。隊商が通うたび、外れを見抜く目が一つずつ増えていく。品を運ぶ帆が、目利きも運ぶ。無駄がなかった。
この仕組みには、連合の裏書きがつく。理事ロデリックが組合の名でそれを認め、ザネッティが連合の名でそれを見届ける。ただの相対の商いではない。組合と連合が公に立てた、新しい保証の背骨だった。
半年前には、考えられないことだった。
このひとは、商会の空白を横取りしようとして現れた。徽章持ちを安く雇い、抜き取りだけで連合じゅうに保証を広げた。速くて、安くて、そして──外れだらけだった。革が裂け、種が死に、苦情が山になった。会頭と、同じ道をたどっていた。
だがヴィオラは会頭と違った。
苦情の山を前に、否認しなかった。なぜ外れるのかを突き詰めた。そして気づいた。徽章だけでは芯が視えない。抜き取りでは全部を守れない。頭を下げて、教えてほしいと言いに来た。プライドを、折って。
会頭には、それができなかった。最後まで自分の非を認めなかった。だから商会は瓦解した。ヴィオラは認めた。だからここにいる。
同じ場所から始まって、まるで違うところへ来た二人だ。
「ただし」ヴィオラが指を一本立てた。「ただ働きはしないわ。運び賃はもらう。目利きを育てる手間賃も。──慈善じゃない。商いよ。そのほうが、長続きする」
「もちろんです」ミレイユさんがうなずいた。「タダより高いものはない。それはこっちも同じ考えです」
二人の女商人が、目を合わせて笑った。似た者どうしの笑いだった。
ザネッティが、その様子を静かに見ていた。連合の名代だ。大商人と組合がいがみ合うのでなく手を組む。連合にとって、これほど心強いことはない。信用の空白に、ようやく確かな橋が架かろうとしていた。
話がまとまると、ヴィオラは供の者に何か運ばせた。
酒だった。南の葡萄酒。取引をまとめた祝いに、と。樽が三つ、運び込まれた。
みんなが杯を手にしたとき、俺はふと、いちばん右の樽が気になった。
「……あの、ヴィオラさん。右の樽、やめておいたほうが」
ヴィオラの眉が上がった。
「あら。なにか?」
「たぶん傷んでます。樽の木が片側だけ湿気を吸ってて。中の酒に、酢の匂いが差してます。飲めなくはないですけど、祝いの席には……ダメですね、これ」
ヴィオラは供の者に樽を検めさせた。栓を抜く。匂いをかいだ供の者が、顔をしかめた。本当だった。
ヴィオラはしばらく俺を見ていた。それから、声を上げて笑った。
「──これよ、これ。この目。三つの樽の、封を切らずに一つを言い当てる。連合じゅうの隊商頭を集めても、こんな芸当はできない。あなた、自分がどれだけのものか、まだ分かってないでしょう」
「いえ、こんなの、樽を見れば」
「見れば、ね」ヴィオラは肩をすくめた。「その"見れば"が、できないのよ。みんな」
俺にはやっぱりよく分からなかった。
ヴィオラは杯を置くと、ちらりとセレネさんとフィオナさんのほうを見た。二人は、部屋の隅で何か言い合っていた。ヴィオラの口の端が、面白そうに上がった。
「ねえ、検品係さん。あなた、あの二人の気持ちには、ちっとも気づかないのね」
「気持ち、ですか」
「品のことは、封を切らずに言い当てるくせに。──いいわ。それはそれで、あなたらしい」
なんの話か、俺には分からなかった。セレネさんとフィオナさんが何か揉めているのは分かる。だがそれと俺と、どうつながるんだろう。
ヴィオラはまだ笑っていた。
不思議な人だと思う。かつては、こちらを丸ごと飲み込もうとした。いまは、こちらの目を誰より高く買う。刃を向け合った相手が、いまは同じ荷を運ぶ。それは勝ち負けとは違う決着だった。潰すのでなく、組む。会頭のときには、なかった終わり方だ。
帰り際、ヴィオラは思い出したように言った。
「そうそう。グラナの北から出る、あの鉱石。あれ、連合じゅうで引く手あまたよ。もっと採れないの? わたくしの帆なら、いくらでも捌ける」
俺とミレイユさんは顔を見合わせた。
北の坑道。亀の沢の秘密。連合が求める、新しい資源。ヴィオラの帆は、しるしだけでなく、グラナの富も運ぼうとしていた。
その帆が向かう先に、何があるのか。
俺たちは、まだ知らなかった。
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