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第168話 新しい天秤

 組合を潰せ、という声が上がった。


 被害者への償いが進むほど、その声は大きくなった。二十年も偽りを見過ごしてきた組合に、もう判を押す資格などない。徽章など飾りにすぎない。そう言って連合の商人が本部へ詰めかけた。


 なかには偽物の絹を床に叩きつける者もいた。効かない薬種の包みを投げつける者もいた。組合の判を信じてまんまと掴まされた品だ。その怒りは本物だった。俺には止める言葉がなかった。


「二十年だぞ」と、革の卸をしている大柄な男が声を張った。「二十年、おれたちは組合の判を信じて銭を払ってきた。その判が嘘だった。詫びの銭を積まれても、返ってこねえもんがあるんだ」


 俺だって偽物を掴まされた老女の顔を見た。組合の判を信じて泣いた人を、何人も見た。その判を押してきたのがこの組合だ。潰せと言われてかばう言葉は出てこない。


 メルダートの評議の間に、連合の名代ザネッティが立った。


「連合の一部はこう言っている。徽章の制度をやめよ、と。組合を解いて、目利きは連合が新しく雇えばよい、と。──理事ロデリック。組合はどう答える」


 広間が静まった。


 金や銀の徽章の評議員がうつむいている。レーヴェの空いた席が、いちばん奥で黒くあいていた。守旧派はもう誰も反論しなかった。組合が消えるかもしれない。その瀬戸際に誰もが立っていた。


 ロデリックがゆっくりと立ち上がった。そして広間の奥の天秤の像へ歩いた。


 事実の皿と、秩序の皿。組合が古くから掲げてきた像だ。ロデリックはその前で足を止めた。革の卸の男を、まっすぐ見返した。逃げも、なだめもしなかった。


「潰せという声は当然だ。わしに、その声を止める資格はない。組合は二十年、偽りを見て見ぬふりをした。その罪は消えぬ。返ってこぬものがある。そのとおりだ」


 声は低く逃げがなかった。


「だが」


 ロデリックは天秤の皿にそっと手を触れた。


「この天秤を捨てれば、偽りは消えるのか。徽章をなくせば、誰も二度と騙されぬのか。──ちがう。徽章がなくとも、偽物を売る者はいる。産地を偽る者はいる。むしろ品を判じる者がいなくなれば、偽りは野放しになる」


 誰も言い返さなかった。


「悪いのは天秤ではない。天秤を、傾けたまま見ないことにした者だ。皿に恐れの重りを乗せ、事実の皿を沈めた者だ。──ならば直すべきは天秤ではない。天秤の使い方だ」


 テオさんが立ち上がった。


「理事の言うとおりです。徽章そのものは罪じゃない。品を保証するというその約束は、人と人をつなぐものでした。壊れたのは約束じゃなく、約束を守らなかった者たちです」


 テオさんは銅の徽章に手を当てた。


「なら守れる仕組みに作り直せばいい。二度と見ないことにできない仕組みに。徽章を、格式の飾りから、本当に品を視る証へ。──それが組合に残された道だと、俺は思います」


 セレネさんも進み出た。銀の徽章が灯りに光る。


「わたしは組合の令嬢として育ちました。徽章を、家の誇りだと教わって。──でも、それが誰かを泣かせる飾りなら、いりません。徽章を持つ者がいちばん先に、その責を負うべきです。捨てて逃げるんじゃなく。内側から変える」


 父と娘が同じ天秤の前に立っていた。


 かつて家の秩序と気持ちのあいだで揺れた娘が。組合の秩序を長年背負ってきた父が。いまは同じほうを向いていた。俺には、二人がずいぶん遠くまで歩いてきたように見えた。


 俺は末席からそれを見ていた。


 徽章が悪いんじゃない。前に俺はそう言った。見ないことにしたのが悪い、と。テオさんとセレネさんは、それを仕組みにしようとしていた。徽章と目利きが争うんじゃなく、手を組む仕組みに。


 俺の目だけでは、組合の正式な証しにはならない。それはずっとそうだった。俺が視て、徽章持ちが裏づける。二人でひとつ。──それを組合ぜんたいでやろう、という話だった。


 ザネッティがロデリックを見た。


「連合は、組合の言葉だけでは動かぬ。徽章を作り直すと言うなら、どう作り直すのか。絵に描いた餅では、潰せという声は収まらぬ。──具体を示してもらおう」


「示す」


 ロデリックは迷わなかった。


「評議会を開く。組合の改革を正式な議として。徽章の制度をどう変えるか。目利きをどう組み込むか。連合の立会いのもとで、一つずつ決める。──逃げも隠れもせぬ。組合のすべてを、開いた場で問い直す」


 広間がざわめいた。


 組合が、自分の制度そのものを公の場で問い直す。長い組合の歴史で、そんなことは一度もなかった。守旧派の古参が青ざめた顔で顔を見合わせた。だが、もう止める声は上がらなかった。


 天秤の像が静かに立っていた。


 傾いたまま二十年、放っておかれた天秤。それをいまから直す。捨てるのでもなく、ごまかすのでもなく。もう一度まっすぐに釣り合わせる。──長い、長い仕事の始まりだった。


 評議のあと、セレネさんが俺のところへ来た。


 少し疲れた顔をしていた。だが目は静かに澄んでいた。


「レイさん。あなたの目を、仕組みにしてもいい?」


 セレネさんが聞いた。


「あなたの目は、あなたのものよ。それを組合の制度に組み込むなんて、勝手かもしれない。──でも、あなた一人にこの重さを背負わせるのも違う気がして。あなたの視方を、みんなで学べる形にできたら。そうしたら、あなたが遠くにいても、誰かが偽物に気づける」


「……俺は、かまいません」


 俺は言った。


「俺のやってることは、そんなに大したことじゃないです。悪いところを、悪いと言うだけで。それをみんなができるようになるなら、そのほうがいい。俺一人だと、視られる品にも限りがありますし」


 セレネさんが少しだけ笑った。


「あなたは、ほんとうに、そういう人ね」


 どういう意味だろう、と思った。だがセレネさんは、それ以上は言わなかった。ただ、明日からの支度がある、と背を向けた。その背中は、令嬢のものというより、一人の職人のようだった。


 評議会の日取りが決まった。三日後だ。


 その三日で、俺たちは改革の骨を組まなければならない。徽章をどう作り直すのか。俺の目を、どう仕組みに入れるのか。話したことも、考えたこともないことばかりだった。


 だが逃げるわけにはいかなかった。


 あの老女の首飾りを、もう二度と、誰にも掴ませないために。


 組合の新しい天秤が、動きだそうとしていた。

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