第167話 残された秩序
蔵の奥に、鍵のかかった棚があった。
レーヴェが置いていった古い鉄の鍵。それが棚の錠を開けた。理事ロデリックの手で。テオさんと、寝返り組の主任と、俺が見守るなかで。
棚には帳面が詰まっていた。ぎっしりと。背の高い棚の上から下まで。二十年ぶんの控えだ。どの品がいつ、どこの産地と偽られ、誰の手へ流れたか。レーヴェ一人が握ってきたもの。
テオさんが一冊を抜いて開いた。
黄ばんだ紙。細かい字。産地の欄が書き換えられている。北のものを南と。安物を上等と。判を押した名。運んだ商会の名。買った者の名。
何百、何千という品が、そこに記されていた。
主任が下段の帳面を持ち上げようとして、腕をぐっと踏ん張った。それだけ重かった。紙の重さじゃない。そこに書かれた、二十年ぶんの嘘の重さだ。
「……これだけの人が」
セレネさんが声を落とした。
「これだけの人が偽物を掴まされてきたのね。二十年。組合の判を信じて」
俺は帳面をのぞき込んだ。品の名が並んでいる。絹。薬種。宝飾。延べ金。どれも、それなりの値のする品だった。庶民が一生に一度、無理をして手に入れるような。組合の判があるから安心して。
ロデリックが帳面を閉じた。
「暴くのは終わった。だが、まだ何もしておらぬ。──偽りを掴まされた者に、まだ何も返しておらぬ」
その声は重かった。組合の理事として四十年、徽章の秩序を背負ってきた人だ。その秩序が、こんな帳面を隠していた。
「探し出す。控えにある者を一人ずつ。連合をまたいででも。偽りの品を掴まされた者に、正しい値を返す。──それが、組合にまだできる、たった一つのことだ」
レーヴェが最後に言い残した言葉と、同じだった。
◇
連合が動いた。
東の名代ザネッティが、控えの写しを連合の各都市へ回した。組合公認の南の名産を買った者は名乗り出よ、と。組合が自ら、偽りを正すために。
最初は誰も信じなかったらしい。組合が自分の非を認めて金を返す。そんな話があるものか、と。だが一人が名乗り出て正しい値を返されると、噂は静かに広がった。
メルダートの本部に、被害者が集まりはじめた。
偽物の絹を持った商人。効かない薬種を掴まされた薬屋。判の押された、中身の伴わない品。テオさんと主任が控えと照らし合わせて仕分けていく。セレネさんが徽章の目で一つずつ検める。俺はその隣で品を視た。
仕事は地味だった。だが、誰も手を抜かなかった。
効かない薬種を掴まされた薬屋には、正しい産地の薬種の値を。目方をごまかされた延べ金を持ち込んだ鍛冶屋には、地金の目減りぶんを。一件ずつ。控えの記録と、俺の目と、セレネさんの徽章。三つが揃って、はじめて一つが片づいた。
その日、遠い街から一人の老女が来た。
布に包んだ小さな箱を、大事そうに抱えていた。開けると、古い首飾りが入っていた。赤い石を連ねたもの。ずいぶん使い込まれて、留め金がすり減っていた。
「これを……見ていただきたくて」
老女はしわがれた声で言った。
「南の珊瑚の首飾りだと、組合の判つきで。死んだ亭主が、わたしに一度だけ買ってくれた品でね。安いものじゃなかった。あの人が無理をして。──連合の触れを聞いて。もしや、と思って」
俺は首飾りを視た。
……ああ。
赤い石。珊瑚に似せてある。だが珊瑚じゃない。染めた骨だ。安い獣の骨を赤く染めて磨いてある。南の珊瑚なら、灯りにかざすと芯に細かい筋が透ける。これは透けない。染めの赤が、表で止まっている。
「……これは、珊瑚じゃありません」
俺は静かに言った。
老女の顔がこわばった。
「染めた骨です。南の珊瑚に似せて赤く染めてある。組合の判は本物です。でも、押された品が偽物なんです。──二十年前に、偽りの産地で格づけされてます」
セレネさんが銀の徽章で裏づけた。骨だと。珊瑚ではないと。
老女はしばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。
「……そうですか。やっぱり」
涙はなかった。ただ、長いあいだ抱えてきたものを、そっと下ろすような顔だった。
「あの人は、これを珊瑚だと信じて、わたしにくれた。組合の判を信じて。──あの人まで、騙されてたんだねえ」
俺は、もう一度、首飾りを視た。
石は偽りだ。それは動かない。だが──。
「細工は、本物です」
俺は言った。
老女が顔を上げた。
「この留め金。石の留め方。ずいぶん丁寧です。石と石のあいだの間隔も、一つずつ手で合わせてある。作った職人は、いい仕事をしてます。石が偽物だなんて、たぶん知らずに。心をこめて、これを作ってる」
「……」
「石は偽りでした。売った者が偽った。でも、この首飾りを作った人の手も、これをあなたに贈った人の心も、偽りじゃありません。──そこは、本物です」
老女の目に、はじめて水の光がにじんだ。
組合は、老女に正しい値を返した。骨としての値ではない。二十年前に払った、珊瑚の値のぶんを。テオさんが控えの記録どおりに。
老女は、金を半分だけ受け取った。
「残りは、いいんです。あの人が無理して買ってくれた気持ちまで、金にはできないから。──でも、本物だって言ってもらえて。それだけで、来た甲斐がありました」
そう言って、首飾りをまた大事そうに箱へ戻した。染めた骨の首飾りを。それでも、大事そうに。
老女が帰っていくのを、俺は見送った。
こういう人が、控えの帳面に、あと何千といる。二十年ぶんの。一人ずつ探して、一人ずつ返していく。気の遠くなるような仕事だ。だが、やらなきゃならない。暴くのは終わった。返すのは、始まったばかりだ。
テオさんが次の帳面を開いた。セレネさんが次の品を待っている。主任が控えを照らし合わせている。
誰も大きな声は出さなかった。ただ黙々と、残された秩序の後始末をしていた。
だが、俺には引っかかることがあった。
被害者に値を返すのは後始末だ。傷の手当だ。でも、傷そのものは、どうする。二十年、偽りを見ないことにしてきた組合。その組合が、明日からまた判を押す。同じ判を。同じやり方で。
それでは、また同じことが起きる。また誰かの亭主が、偽物を本物だと信じて買う。また誰かが、二十年抱えて泣く。
空いた席。崩れた壁。返しきれない帳面。──この組合を、どう建て直すのか。壊すのか。直すのか。
その問いが、丘の上の本部に、重く残っていた。
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